鞆の浦漁業協同組合 代表理事組合長
羽田幸三さんの物語り
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鞆の浦漁業協同組合 羽田幸三さんの物語り
常夜灯からフェリー乗り場を背中にして、鞆の街並みを見渡すと、
海沿いに、ひと際新しい現代的な建物が見える。
屋根の下には「JF鞆の浦」の文字。
リニューアルしたばかりの鞆の浦漁業協同組合だ。
これからそこで、 “漁師の親分”と会うことになっている。
この漁協で組合長を務める羽田幸三さんだ。
「こんにちは」とあいさつをすると、
ビシッとジャケットに身を包んだ“親分”が、
にこやかに迎えてくれた。
鞆で代々漁師を営む家に生まれ育った羽田さんは、
根っからの漁師、ではなく、畑違いの仕事経験も実に豊富だ。
「東京で台湾料理店、鞆に戻ってからは美術館の学芸員、
それからやっと漁師になっとりますから」
一度、鞆をはなれ、都会で働いて戻ってきた羽田さんは、
今の鞆の浦がどのように見えているのか。
まずは、率直に聞いてみた。
鞆の浦漁業協同組合 羽田幸三さんの物語り
羽田さんは、少し複雑な表情になりながらも、真剣に話をしてくれた。
「一般的なことを言うと、観光メインの町づくりって、
必ずしもその場所で暮らす人にとって
ええことばかりじゃないでしょう。
鞆の浦も、歴史的なものを大事にしてほしいっていう声と、
便利にしてほしいという声とが、ようぶつかっとると思うんよ。
でも考えてみたら、デメリットがメリットになっとる町、
不便なことが魅力になっとる町は、世界中にたくさんある。
なんでもかんでも開発ばっかりじゃなくてええ。
鞆が好きで、鞆を良くしたい気持ちは一緒なんじゃけえ。
1回みんなで深呼吸をして、改めて自分たちの町を見てみると、
水と油みたいに見える意見の違いにも、
解決の糸口は見つけられると、私は思うとる」
我が町を思う気持ちが、心の中で静かに燃えているような、
そんな熱のこもった主張に思わず聞き入っていると、
「こうやって喋るとな、水と油のどっちからも怒られるんよ」と言って、
羽田さんは白い歯を見せた。
「あとは、今、鞆の小中学校に子どもを通わせとる親世代の声を、
もっと大事にしてもええと思う。
我が子が成長したときに、どんな鞆になってほしいか。
その目線は、間違いなく未来を向いとるけえね」
鞆の浦漁業協同組合 羽田幸三さんの物語り
鞆の浦の漁師は、観光支援に一役買っている。
その典型的な例が、「鯛網」だ。
最近では、船を新しくしたり、体験できるような内容にしたりと、
少しずつ進化させていて、そこでも羽田さんの存在は大きい。
そして、2017年から新たに始めたのが、
漁協と福山市内の病院(脳神経センター大田記念病院)とがコラボした
「鞆の浦わかめプロジェクト」という取り組み。
「広島と言えば、牡蠣と思うじゃろ?
鞆の浦の牡蠣。たしかに聞こえはええかもしれん。
じゃけど、このあたりの海は水深が浅くて牡蠣は不向きだったんよ。
それで、自分たちの道具、自分たちの海でできることを考えて、
わかめに目をつけた。それが10年前。それから自分が組合長になって、
ここ3年で本格的に動き出したんよ」
養殖事業をするためには、漁業権が下りなければならない。そのためには、
この海でわかめが育つということを実証する必要があったそうだ。
海の栄養状態、魚に食べられるリスクの回避、種と海との相性などなど…。
3年間は試行錯誤の連続だったという。
「やっぱり生き物を育てるのは難しいんです。
的確に情報を入れながら、自分の目でも確かめてやっていかんといけんので。
獲ってるだけのほうが随分楽だと思いましたね…」
鞆の浦漁業協同組合 羽田幸三さんの物語り
このわかめプロジェクトの特長の1つが、オーナー制度。
つまり、養殖の権利を売る方法だ。
「普通にわかめを収穫して、加工して販売となると、
設備投資も人件費もかかる。
それよりも、オーナ―制度にすれば、お客さんが種をつけたり、
収穫したりといった、“育てる楽しみ”まで提供できる。
そうすれば、鞆に人が集まると思ったんよ」
わかめのオーナーには、一口3000円からなることができる。
今回は、個人の方から飲食店、旅館、病院などを含めて75件が集まった。
そして、3月から4月初旬にかけて、無事、収穫が終わったという。
「個人オーナーは自分たちで食べたじゃろうし、
お店の食事や病院食でも使ってくれて、
余ったわかめは漁師全員でわけたりもして…。
今年は、そんな第一歩。
少しずつ広がればええかなって。
あんまり張り切ったら体がもたんでね(笑)。
何よりも、新しいイベントが鞆にできたのは収穫じゃったな。
この時期って、ちょうど目立った祭りがなかったから」
大正時代から始まった観光鯛網を支えてきた鞆の漁師たち。
そして、新しいイベントを生み出した養殖わかめのプロジェクト。
羽田さんの話を聞きながら、観光とともに生きてきた、
鞆の漁師ならでの流儀を感じた。
鞆の浦漁業協同組合 羽田幸三さんの物語り
このプロジェクトに賛同した大田記念病院は、
福山市内でも有数の大きな病院。
どうしてこのプロジェクトに、病院が手を挙げたのだろう?
「大田記念病院は、ちょうど減塩の啓もう活動をしとった時期。
今もだしパックをプロデュースしたり、
減塩のレシピ本も販売したりと力を入れとる。
それで、わかめはというと、
体内の余計な塩分を外へ出すような効果もあるみたいで、
お互いの思惑が合致したんよ。じゃけど、いちばんは…
病院の理事長が、高校の同級生なんよ。
それで、わいわい話をしとるうちに、こういう展開になっていった。
これがホンマの流れじゃろうなぁ(笑)」
組織のトップに立ったとき、同じように成熟した友人がそばにいること。
そんな絆も、地域を盛り上げる大きな原動力になるのかもしれない。
鞆の浦漁業協同組合 羽田幸三さんの物語り
「次は、シラス。この漁協のとなりに加工場を作ったんです。
それで、そこに近々、瞬間冷凍機が入るんよ」
シラスは季節の魚で足も早い。しかし、瞬間冷凍することで、
いつでもシラスが提供できる仕組みを作りたいのだという。
「たとえば、その冷凍作業を、
もう沖へ出られなくなった年配の漁師たちにやってもらうとか。
重労働は若手に任せて高齢者にも役割をつくる。
そうすることで、漁師の暮らしを支えていきたいと思っとるんです」
その冷凍機はシラスだけでなく、ねぶとや鰆といった地の魚にも使える。
まずは羽田さんが自分たちでやってみて、将来的には
年配の漁師の次の舞台になればという思いがあるのだと言う。
「ただ、最近の漁師はみんな元気じゃけどな。
現役の最高齢が86歳。もう毎日のように沖に出とってじゃ。
もしかしたら家にずっとおるほうが、
具合が悪くなるんかもしれんね(笑)」
鞆の浦漁業協同組合 羽田幸三さんの物語り
羽田さんが子どものころは、
約1万3千人の人たちが鞆で暮らしていたという。
漁師もいれば、魚を買う人たちもいて、今よりも活気があったそうだ。
魚のことを知っている人たちに、獲れたての魚を買っていただく。
それが漁師にとっての理想だと、羽田さんは言う。
「今も漁師のお父ちゃんが獲った魚を、お母ちゃんが開いて干したり、
加工したりして売っとる。
今でいうところの、地産地消や6次産業化が大の得意なんよ」
たしかに、鞆を歩くと、家の軒先で魚を売るおばあちゃんや、
天日干しされた小魚を見かける。
それは、けしてノスタルジックな風景ではない。
鞆の暮らしそのものなのだ。
「たとえば鞆にも、道の駅ならぬ、
『海の駅』のようなものが必要だと思う。
軒先で売るのもええんじゃが、
漁師たちが、獲れた魚を持って集まれる場所があれば、
鞆の暮らしは、もっと活気がようなるし、発展していけると思っとるんです。
景観のことやら条例やら、いろいろ整備が必要だと思うけど、
漁協としては、なんとか実現させたいことじゃね」
鞆の浦漁業協同組合 羽田幸三さんの物語り
羽田さんはおもむろに、部屋に飾られた1枚の書を指さした。
「これは、中川美術館の館長がこの漁協を建て替えたときに、
『今の鞆にはこれが必要じゃの…』って言うて、書いてくれたものなんよ」
『禮之用和為貴』
―― 礼の用は和を以て貴しとなす
最後の3文字“和を以て貴しとなす”は、聖徳太子が使った有名な言葉だが、
羽田さんは最初の3文字こそ、すごく大切だという。
「これは、“調和をつくるためには礼が必要”っていう意味。
いくら仲良くしようって口で言っても、礼儀を欠いてたらダメでしょう?
相手に礼儀を尽くして接していかないと、いくら言葉を並べても口だけになる。
組合の運営でも漁師同士の付き合いでも、相手への尊敬の念を持って
接していかんといけん。鞆のこれからを考えるときも一緒だと思います。
不便なところに暮らす人、車を運転できんお年寄り、
弱っている人のために何ができるのか、みんなで知恵を出して動いていきたい。
私も感情的になる人間じゃけえ、この言葉に、ときどき身につまされるんよ」
いろんな人たち、いろんな暮らし、いろんな課題、いろんな理想が、
今の鞆にはある。そのことをいつもかみしめながら、
羽田さんは、海のように広い視野と、深い愛情を持って仕事をしている。
近い将来、鞆から漁師がいなくなる。漁船がない風景になる…。
きっとそのくらい深刻な問題や不安と、日々向き合っているにちがいない。
それでも羽田さんの活動からは、一筋の光を感じる。
わかめ、シラス、海の駅。漁協のこれからの活動に、
ますます目が離せなくなった。
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