「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さん

人々が当たり前に顔を合わせる
風通しのいい“家”を求めて

「鞆の浦さくらホーム」
羽田冨美江さんの物語り

物語りを読む

「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

「人」と「地域」を結ぶ橋

「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江の物語り

保命酒の入江さんや八田さんの
お店が並ぶ県道を、ふらりと南に折れる。

すると清潔感のある大きな町家が、左手に見えてきた。
出格子がとても小粋で、鉢植えも涼やか。

縁取りが緩やかな曲線を描く看板には、
味のある筆致でこう書かれている。
―鞆の浦さくらホーム。

江戸時代の商家を再生した、地域密着型多機能ホーム。
ぼくは「人」が綾なす「物語り」の予感を胸に、
ごめんくださいと、玄関の扉を少し開けてみた。

すると、はあいという返事と共に、
ぼくの目の前に明るい笑顔が躍った。
羽田冨美江さんだった。

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「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

ホームの中には、
活発で親密な空気が流動していた

さくらホームの開放的で爽やかな屋内

羽田さんは気持ちのいい笑顔で、
ぼくを快く招き入れてくれた。

屋内も外観の印象を裏切らず、
とても開放感のある爽やかな雰囲気で、
一階は吹き抜けになっていた。天井が高い。

見上げると梁が複雑に重なっている。
壁の高いところに採光窓があって、
自然の光も存分に入って来る。

茶系の風合いが目に優しい
レトロなシーリングファンも、
優雅に空気を循環させる。

赤い打掛が二階の廊下に飾られていて、
入居者さんの目を愉しませるための物なのだろうか、
ぱあっと空間を華やかに演出している。

ぼくは一階の居間に案内され、
遠慮なくソファに掛けさせてもらう。
入居者さんとホームのスタッフさんの活発で
親密な日常のやりとりが、頭上からしきりと降ってくる。

もちろん、入居者さんは高齢な方たちだから、
「活発な」といっても、動的なにぎやかさとは、ちがう。

そうではなくって、このホームからは、
人間の営々たる生―その「営み」そのものを、
ざわっと感じるのだ。

そういった雰囲気の中で、ぼくと羽田さんは話を始める。

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「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

さくらホームを始めるきっかけ
―出航前夜

舅の介護、自身のプライド、 そして、地域との隔たり

さくらホームの内装を まじまじと見回しながら、
ぼくは羽田さんに尋ねる。

「古民家の温かみもあるし、
とても過ごしやすそうな空間ですね。
こういうホームを始めるきっかけって、
やっぱり何かあったんですか?」

羽田さんは柱に貼られた着工日の文字に目を移す。
そこには、

「平成十五年十月着工、平成十六年三月吉日完成」

と書かれている。羽田さんは話し始める。
―「きっかけ」の物語り。

わたしは以前、理学療法士として福山の
病院に二十年近く勤めていました。でも、
舅に介護が必要になって、それで病院を辞めたんです。

舅……父は生まれも育ちも鞆、生粋の鞆の人間です。
わたし、それまでは鞆なんて、うっとうしいばかりで。
福山に勤めていたころは、鞆で過ごす時間自体が
少なかったし、あまり鞆をわかってなかったんですね。
父の介護をすることになって、やっと鞆の地に足が着いたというか。

介護は苦労が絶えませんでした。
うちの父は、物を投げたり、怒鳴ったり……。
いいえ、とってもいい父なんですよ。
いい父なんですけど、頑固おやじでねえ。大変でした。

父は脳外科の大きな病院に入院していたんですけど、

「こんなところにおりたくない」

なんてわがまま言ってね。
父はね、鞆の病院ならどこでもいいんです。鞆で死にたいの。

その大きな病院の主治医の先生も最後には折れて、
ICU(集中治療室)から鞆の病院へ搬送する許可を出したんです。
わたし、先生に

「いいんですか?」

って聞きました。そしたら、先生は、

「この人は、救急車の中で死んでも本望でしょう、鞆へ帰るのなら」

ってね。それくらいの人だったんです、父は。

そして、鞆の病院に入ったら入ったで、
すぐに「家がいい」って言い出して、
自宅に帰って来るんですけど、今まで家の「長」だった人が、
いっぺんに「介護される人」になってしまったんですね。
わたしも病院勤めがずっと長かったものですから、
病院でするリハビリを施すわけですよ。
わたし、病院では後輩を指導する立場で、
だから自分のプライドをかけて、
自分の父をわたしがちゃんとしようと、必死でやりました。
でも上手いこといかないんですね。
父はどんどん意欲をなくしていくんです。

家の中ばかりにいたらいけないよって、
車いすに乗っけて散歩するんですけど、地域の人が

「じいさん、こんなになってしもうて、かわいそうに」って、
殊更に「かわいそう、かわいそう」って言うんです。

お酒の好きな人だったから、昔よく通っていた居酒屋さんに
連れて行ってあげると、常連さんたちも、一所懸命、
愛想よくはしてくれるんですけど、
どう関わっていいかわからないんですね。

自然に喋っとればいいんだけど、憐みが先に立っちゃって、
みんな、すーって逃げちゃうんですよ。

わたし、なんかおかしいなと思って……。
今まで、病院でリハビリして在宅に返す、そして、
地域に暮らして頂く、という理念でやってたのに、
地域がそんな状態だったら、結局、
その人らの居場所が作れないんですよ。

今まで病院でやってきたことと現実との間に、
大きなギャップを感じました。

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「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

さくらホームを始めるきっかけ
―船出

地域の力に目覚める! 「人」こそ地域

結局、地域を変えないと、どれだけいいリハビリをして
在宅にもどったところで、介護が必要な人たちは、
地域では排除されてしまうんですね。
町の中に居場所が与えられないんです。

これは、地域の人たちに悪意があるということでは、
決してありません。ただ、意識のありようの問題なんです。

だから、根本的に地域の人たちの意識を変えないと
いけないんじゃないかって考えたんです。
そのためにはどうしたらいいか言うことでね、
ボランティアから初めました。地域のボランティア会に参加して、
町の各施設に手すりを付けるよう活動したんです。

今はスロープや階段に手すりが付いているのは
当たり前ですけどね、そのころはなかったんです。
今じゃ、お寺にもどこにも、付いていて当たり前の手すりが、
当時、十三、四年前はなかったんです。

鞆支所の二階が公民館なんですけど、
そこの階段にすら手すりがなかった時代ですよ。
なにか、そういうところから始めないといけないな、って。

そうして、小さなことから活動の輪を拡げていきました。
小学生に車いすの話をして、この町でなにが不便なのか
調べてもらったり、地域の人たちを集めて、体が不自由になった時の
疑似体験をしてもらったり。そういうことから徐々に、です。

そんな中で、父のことも含めて、介護が必要な人についての
話を助成会にし続けていました。

するとね、周りの意識がどこか変わってきているのがわかるんです。
空気感というのかな。

お祭が近付いてきたある日、世話方が準備しているところに、
父を連れて行ったことがりました。
すると、

「兄さん、よう来たなー」

って言って、ビールを出してくれてね、みなさん、
普通に父に話しかけてくれたんですよ。

「これどうしたらいいんかな」

とか

「昔はどうしてたんかな」

言うて。

そうすると、父はねえ、俄然、活き活きとしてくる。
わたしは、毎晩、祭準備の作業所に父を連れて行きました。
すると、父はどんどん自分で訓練し始めるんですよ。
わたしがさせるんじゃなくって、父が自ら、
みんなの中に入りたくって。

ああ、地域の力ってこんなにすごいんだ、って。
意識ひとつでこんなに変わるんだ、って。
もう、車いすに乗っている「かわいそうな父」じゃあなくなったんです。
今まで、鞆で生きてきて、貴重な経験を積んできた、
ひとりの「先達」だと、地域の方は見てくれるようになったんですね。

地域って結局は「人」なんですよね。
物理的な、ある場所、ある土地ではなくって、
「人」とのつながりこそが地域なんですよね。
そこに住む人の気持ちが変われば、地域も、町も変わるんです。
―その想いが、このホームを始めた「きっかけ」ですね。

だから、この施設を始めて八年になりますけど、
ここの運営それ自体よりも、もっと根本的に、
町の人の意識を変えていきたいという想いがあるんです。

専門的に言えば、「意識環境」っていうんですけど、
それを変えていきたいんです。

そんなこというとかっこよくなっちゃいますけどね(笑)。

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「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

さくらホーム ひとつの役割
―地域の「意識」を変える

顔が見える関係で関わること、これが大事

ぼくは、じっと羽田さんの話を聞いていた。
この心地よいホームをつくるまでに、たくさんの苦労が、
たくさんの「物語り」が、あったのだ。

羽田さんは言う。

「だから、この施設は鞆の人しか利用できません。
鞆のお年寄りを、鞆の地域が支えていく。
その意識付けが目的なんですからね」

なるほど、一貫している。
ぼくは、二階でお仕事に精を出している
スタッフをちらりと眺めながら、羽田さんに聞いてみる。

「スタッフもみんな鞆の人なんですか?」

「ううん」

羽田さんは首を振る。

「鞆の人の割合が6で、鞆以外の人が4。
この6:4のバランスが、とってもいいんです。
意識的に町に貢献したいから、鞆の人の雇用の場になれば
とってもいいんですけど、あえて管理者は鞆の人にさせないんです。
なんぼ優秀でも、運営にはある程度の距離感も必要ですから」

公正に冷静に、運営というものを捉えているんだ。

羽田さんは続ける。

「ここはデイサービスで、現在、鞆で三か所運営しています。
地域の意識を変えていきたいというわたしの想いがまずあって、
そのためには、スタッフとご利用者さんと地域の人が、
顔が見える関係で助け合うってことをしていかないと、
意識なんて変わらないんです。
現場でしょっちゅう関わっていかないと。
ケアワークに関する教科書もたくさんあるけれど、
大切なのは実体験です。見慣れないといけません。
地域の方にしたって、認知症の方、車いすの方と頻繁に関わることで、
接し方を覚えていくんですから」

そして、拠点は必ず生活区域の400m圏内に設けているという。

「そういうふうに生活に近いところに拠点があれば、
地域の人たちも気軽にホームに出入りできるし、
利用者さんも地域に顔を出しやすい。
もちろん、スタッフも一緒に町に出ますから、
ホームの存在も地域の方々に知ってもらえます」

そして、羽田さんは、まっすぐぼくを見て、こう言う。

「そうして関わることで、はじめて地域の人たちの
意識を変えることができるんです。それが、
さくらホームの役割のひとつです」

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「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

さくらホーム もうひとつの役割
―地域への「責任」を持つ

最後にはウチが「責任」持ちますよっていう、その覚悟

「そしてね」と、羽田さんは続ける。

「もうひとつのさくらホームの役割は、365日24時間、
しっかり利用者さんのフォローをするいうことです。
在宅にいる人でも、ね」

在宅の人まで?とぼくは驚く。

それじゃあ、夜中に呼び出されることだってありうるわけだ。

「そう。昨日も、夜中の12時に、電話がありました。
老老介護をされてる方でね、ご主人が介護されてるんですけど、
『妻が寝ないから、わしはもうたまらん、来てくれー』言うてね。
そんな電話、しょっちゅう来ますよ。夜中でも、もちろん、
すぐに対応します。飛んで行ける拠点がないとね」

なるほど、ここにも生活区域内に拠点を持つ意味があるんだ。

「わたしは、普段から言います。
なんぼ障がいや認知症があっても、地域の方と関わり合いながら
暮らしていくことで、その人らしさを持って暮らしていけるんだよ、って。
だから、地域と関わっていこうよ、って。
でもね、『言葉』には、『責任』が伴うんです。
『言葉』だけ吐いて、行動に『責任』を持たなければ、
いっつも羽田さん、いいこと言いよるけど、
実際はねえ、ってなっちゃう」

羽田さんは毅然と「言葉」を継ぐ 。

「介護が必要な方たちと地域を関わらせる以上、
その後ろに『責任』を持つものがいなければいけない。
認知症の方で、夜中、徘徊する人いますよね。
そういう連絡入ったら、すぐ飛んでいきます。
虐待みたいよーなんて電話が入れば、すぐに向かいます。
最後にウチが『責任』持ちますよって、そういうのがなかったら、
地域の意識が変わることなんてないんです」

ぼくは羽田さんのその「言葉」から、鞆の町に対する
大きな使命感と覚悟を強く感じた。

本気の人間だけが纏う、ある種の雰囲気。
しかし、次の瞬間、羽田さんは柔らかく笑いながら言う。

「でも、ひとりでしているわけじゃないですから。
みなさんのご協力あってこそ、です」

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「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

わたし、稲葉さんの大ファン

鞆のボランティアの先駆者・稲葉さん ―その影響力は大

「責任っていうと、稲葉さんなんかも責任取ってますからね」

羽田さんは、ぱあっと笑顔を作って言う。

「稲葉さんっていうと、あの『鞆の津ふれあいサロン』の稲葉さん?
ぼくもお会いしたことありますよ」

「鞆の津ふれあいサロン」というのは、鞆湾の西側にある
旧鞆平保育所の建物を活用した交流スペースのことで、
そこの代表を務めているのが稲葉さんなのだ。

「稲葉のおじさん、はじめて話をした時は、怖い顔で。
何しに来た!みたいな感じだったんだけど」

ぶっきらぼうなのよねえ、と羽田さんもぼくと一緒にあははと笑う。

「でも最後には、すこし笑ってくれて。ああ、いい笑顔だなあって。
それに、責任を持って地域に向き合ってるっていうのが
雰囲気に出ていて、すごく伝わるものがあるんですよね」

そうでしょう、と羽田さんは肯きながら言う。

「わたし、父の介護ももちろんそうですけど、実は稲葉さんの
存在もすごく大きい。影響受けました。
父を介護するため仕事を常勤からパートにしたころにね、
鞆でボランティアの会に参加したんです。
そこに、稲葉さんが会長としておられました。
正直、最初はうるさいおっちゃんじゃなあとか思ったんですけど、
あ、こんなこと言ったらいけんか」

羽田さんはあははと笑い、ぼくもつられて笑う。

「でもね、この人がやってることに魅力を感じたんです。
前はね、町のために漠然と、なにかできればいいって、
講演活動だとか、車いすの実習指導とか、
そういうことばかりをやっていました。
大事なことではありますけど、まあ、表面的なことですよね。
でも、稲葉さんのところに行くようになって、もっと根本的なことを、
もっと真摯に取り組まなきゃいけないんだって感じたんです」

責任、ですよね、と羽田さんは続ける。

「稲葉さんは、平町に責任を持ってます。愛がすごいある。
ちょっと癖があるけれど、付き合えば付き合うほど、
誠実、なんですよね」

―わたし、稲葉さんの大ファン!

その話を聞いて、ぼくはつくづく、人とは出逢いなんだな、と思った。
羽田さんは愉快そうに、そう言って大きく笑う。

「ほんとに、この人はみんなに頼られていて。
地域にトラブルとか、なんかあったら稲葉さんっていうね」

うん、ほんとうに、稲葉さんは地域に愛されているんだ。
そういう人の背中を見て、羽田さんの地域への想いは、
豊かに豊かに育っている。

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「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

この鞆の町に
誇りを持ってもらいたい

鞆の町に兆す、いい変化の訪れ

羽田さんの鞆の町への想いは、
つねに前へ前へと向いている。

「最近、『福祉を高める会』で、
『この町を未来の子どもたちに繋げるために』っていう内容の
シンポジウムを開いたんです。
お年寄りでなくって、今度は若い人たちを集めて、
金沢大学、立命館大学、福山市立大学の先生方と稲葉さんで、
この町をどうしたらいいかって」

羽田さんは、江戸時代の商家の面影を今に残す、
このホームの内装の其処此処を目で辿りながら続ける。

「この鞆の町って、朝鮮通信使や福山藩主、そのほかにも多くの文人
・墨客をお招きしてきたところなんです。考えてみれば、
この町で暮らすということは、坂本龍馬が歩いたところを
歩けるいうことなんですよね、わたしたち!
多くの歴史が積もっていて、それってどんなにすごいことなのか。
だから、この町に誇りを持ってもらいたいっていうね。
それを幼児のころから教えて行こうっていう、
そんなシンポジウムをしたんです。
だから、中学校、小学校、こども園の先生が来て、
地域の青年らが来て……そうして、そんな輪がだんだんと
拡がっていったんです」

鞆に若い人たちの力が、徐々に集まりつつあるんだ。

「毎年、東京の大学生が鞆に実習に来るんですよ。
立教大学と家政大学。もうずっと来てる。稲葉さんが結局、
面倒見てくれてるんですけどね」

あはは、と羽田さんは晴れ晴れと笑い、そして力強く続ける。

「鞆の町にはね、何よりも人情が残ってる。
国宝なんです。国宝級の人情。
それを未来の子どもたちに繋げていかなければいけない」

東京の学生さんが鞆に来たり、地域の青年らが動いたり。
今、鞆には、確実にいい変化の訪れが兆しているような気がする。
羽田さんの前向きな覚悟に触れて、ぼくは、たしかにそう思った。

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「鞆の浦さくらホーム」羽田冨美江さんの物語り

  • Text : 浅見直希
  • Photograph : Nipponia Nippon

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