茅の輪くぐりの物語り
すっかり夏めいた六月の終わり、三十日、夕刻近く。
ぼくは沼名前神社の拝殿へと伸びる石段を、
ゆっくりと上って行く。
日本で最も古い謂れをもつという「茅の輪くぐり」。
その由緒正しい神事が、
沼名前神社の祇園宮で行われるのだ。
ぼくは、最後の一段を上りきり、
二本の石柱の間を結ぶ、しめ縄の下をくぐる。
すると、目の前に、茅の輪が静かに佇んでいた。
まんまるの、茅の輪。
そして、それをふんわりと覆うように、拝殿の両翼が被さり、
さらに、その上から森の緑が重なる。
―完璧に美しい、シンメトリー。
ぼくは、ひとつ、ほうっと息を吐いた。
茅の輪くぐりの物語り
神事が始まる時刻より、
ずいぶん早く拝殿の前に着いた。
まだ、あまり人はいない。
ぼくはまず、手水舎で、
手を洗い口をすすいだ。
それから、改めて茅の輪を眺めてみる。
直径は二メートルくらいだろうか、
濃い緑色が目を鮮やかに愉しませてくれる。
近付いてみると、若やいだ青くさい香りが、
ふわりと鼻腔をくすぐる。
そうして、仔細にこの輪っかを
観察していると、ぼくの目の前を横切り、
その輪の間を通り抜けていく人がいた。
その人は、ぐるりと旋回し、そして再び、くぐる。
と、思う間に、またまたぐるり。
そうして、幾度か茅の輪の間をくぐり抜けていく。
おや、まだ神事は始まっていないというのに、
勝手にくぐってしまってよいものなのだろうか?
ぼくの疑問をよそに、ほかにも幾人かの人が、
同じように八の字を描いて茅の輪をくぐっていく。
そうして、くぐり終えた人たちは、
満足げに早々と帰っていく。
とても、慣れたものだ。
どうやら地元の人たちみたいだった。
神事に参列せずに、くぐるだけでも
効験があるということなのだろうか。
きっと、そういうことなんだろう。
境内にはおっとりとした、
のびやかな空気が漂っていた。
幾人かは拝殿前の階段に腰を落ち着けて、
おしゃべりに興じている。ほかの幾人かは、
くつろいだ様子で立ち話に花を咲かせている。
ぼくも、この人たちにならって、
ゆったりと神事が始まるまでの時間を過ごそうと思った。
そうして、本殿の前の石段に腰を下ろすと、
ぴたり、ちいさなまあるい瞳と視線がぶつかった。
茶色い毛並の、かわいい犬だった。
あはは、きみも、待ちぼうけかい?
ぼくとおんなじだね。
茅の輪くぐりの物語り
夕方、十七時前には、参詣人たちもだいぶ集まり、
境内は打って変った賑わいを見せはじめる。
そうしている内に、神職さんが姿を現す。
臙脂色の狩衣(かりぎぬ)に、紫紋入りの紫袴。
頭には烏帽子(えぼし)を被り、足元には
浅沓(あさぐつ)を履いて、手には笏を持っている。
神職さんが茅の輪の前に立つと、法被(はっぴ)を
羽織った関係者の人たちや、一般の参詣人たちが、
みな一様に整列しはじめる。
ぼくもそれを見て、いそいそと後ろの方に控える。
そうして、「夏越(なごし)の祓え」が行われる。
鞆だけに限らず、六月三十日に全国各地の神社で
行われる、祓えの神事。
神職さんが祝詞用紙を拡げ、音吐朗々、
大祓詞(おおはらえのことば)を奏上する。
参詣人たちは、その不思議な音の波に耳を
洗われながら、目を閉じて頭を垂れる。
参詣人の中には、人の形に切り取られた、
ちいさな白い紙を持っている人がいる。
なるほど、これが人形(ひとがた)なのだ。
禍を代わりに背負い込んでくれる形代(かたしろ)。
また、紙吹雪のような一センチ四方の紙を、
はらはらと体にかけている人もいる。
これも、罪穢(つみ・けがれ)を祓うためのもので、
切麻(きりぬさ)と呼ばれているものらしい。
祝詞が空気を優しく揺すり、
紙吹雪がはらりはらり宙に舞う。
そんな日常にはない光景を目にして、
ぼくはようやく、ああ、
神事が始まったのだ、と思った。
さあ、これからいよいよ、
「茅の輪くぐり」が、始まる。
茅の輪くぐりの物語り
神職さんを先頭に、参詣者たちは行列を作る。
左まわり、右まわり、そしてまた、
左まわりと八の字を描きながら、
茅の輪を合計三度くぐる。
うん、さっき神事が始まる前にくぐっていた人たちと、
同じくぐり方だ。なるほど、これが決められた
くぐり方だったんだ。
粛然と参詣者たちは、
茅の輪をくぐり抜けていく。
ぼくも、三回、くぐる。
参詣者が全員くぐり終えたら、
法被を着た関係者たちが、おもむろに
茅の輪の撤去作業に着手し始める。
それを眺めて、こんなに味気なく
片付けてしまうものなのかな、とぼくが
呆気にとられている一方で、ほかの参詣者たちは、
ごく当然の成り行きというふうに、
持って行かれた茅の輪の後を追って、
社殿のほうに歩を進めていく。
まだ、何かあるのかな?
茅の輪くぐりの物語り
社殿の中で、法被姿の関係者たちによって、
茅の輪がばらされていく。
まとまって立派な輪を作っていた
茅草(ちがや)が、解かれていく。
そして、参詣者は並んで、そのイネ科の
ぴんと伸びた草を数本ずつもらっていく。
ぼくも、また前の人の真似をして、
その茅草をもらってみたものの、
一体これをどうしたらいいのかわからない。
地元の人たちは、
茅草を受け取ったら早々に帰ってしまう。
そこで、ぼくは関係者の方に教えてもらうことにした。
すると、ぼくと同様、この茅草の扱いに窮する人たちが
いたらしく、数人がぱあっと集まってきた。
教えてくれたのは、神職さんの奥さんだった。
「この解かれた茅草を、
またちいさな茅の輪に編み直す」
奥さんはそう言って、
実際に編み直すところを見せてくれた。
ぼくらは、ほおっとその手際に感嘆の息を漏らす。
まず、茅草を幾本かまとめて、
直径七、八センチの大きさの
円になるように丸める。
すると、長さのまちまちな茅草は、
先端をぴょこんと、あちこちに跳ね飛ばすことになる。
それに構わず、そのちいさな輪の円周を、
さらに茅草で補強していく。まるで包帯を巻くように、
ぐるぐると輪を覆っていく。
それでもなお、ぴょこんと跳ねている頑固な
「くせっ毛」は、ちょきりとハサミで切ってやる。
はい、それで出来上がり。
なるほど、ちょっといびつだけれど、ぼくにもできた。
奥さんは言った。
「スサノオの故事にならって、鞆の人は
これを玄関先に飾ります。これを飾っておけば、
輪くぐりしましたよって印になるいうことでね、
厄除け、魔除けになるんです」
それはすごいな。
ときに、ぼくのこのへたくそな茅の輪でも効くのかな?
あはは。
茅の輪くぐりの物語り
ぼくは自分で作ったちょっといびつな茅の輪を、
手の平にぽんと載せながら、祇園さんを後にした。
石段を下りきり、参道の石畳をたどりながら、
鞆の町並みを眺める。
特に家々の玄関先、軒先を注意深く眺める。
奥さんが教えてくれたんだ。
「家々の軒先を見てごらん。
前に飾ってた、茅の輪がぶら下がってるから。
もうすっかり茶色くなっとるよ。
この新しい茅の輪が来て、
その古いののお役目は、おしまい」
鞆の浦の中でも、
町や地域によって編み方が違うという。
へえ、それはおもしろいね。
ぼくは、鞆の町歩きの楽しみが、
またひとつ、ふえた気がした。
ぼくも、このちいさな茅の輪を
家に持って帰って、
玄関先に飾るとしようかな。
自分で編んだのだからね。
愛着が、湧く。
茅の輪くぐりの物語り
他の物語りを読む