鞆町カフェー/454 倉田幹生さんの物語り
遅めの昼食を「鞆町カフェー/454」でとることにした。
このイタリアンレストランには何度も来ている。
いつもはパスタを頼むのだけれど、
今日は気分を変えてカレーにした。
ランチの営業時間は、あと30分ほどで終わる。
この時間に来たのは、店を一人で切り盛りしている
倉田幹生さんとゆっくり話をしてみたかったからだ。
この店は、もともと鞆の浦で三代続いた病院、
「倉田医院」だった。
倉田さんの父親が三代目だったのだが、
倉田さんは医師の道は選ばず、料理人になった。
大阪のレストランで腕を磨き、イタリアに留学した後、
地元へ戻って来た。いわゆる「Uターン」だ。
倉田さんが病院を改装し、
レストランをオープンしたのは、2008年3月のこと。
9年目を迎えて、「鞆町カフェー/454」は、
観光客にはもちろん、地元の人にも愛される店になっている。
ここ数年は、小・中学校のPTAの会合などに
使われることが増えたそうだ。
また、夜にはバーになるので、鞆に住む若者が集う。
倉田さんの気遣いで
深夜まで特別に店を開けていることもあるようだ。
以前その話を聞いた時、倉田さんは
「夜は暇だからいいんですよ」
と、どこか嬉しそうに言っていた。
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最後のお客さんが店を出て、倉田さんも一息ついたようだ。
頃合いを見て、私は倉田さんに話しかけた。
「前から聞いてみたかったんですけど、
なぜここで店を開こうと思ったんですか?」
「それは長い話になりますね」と倉田さんは笑う。
2人分のコーヒーを淹れながら、
倉田さんは鞆の浦に戻ってくるまでの物語を聞かせてくれた。
祖父と父親が医師で、倉田さんは、長男。
そもそも医院を継ごうとは思わなかったのだろうか?
「思わなかったですね。両親から医者になれとも言われなかったし。
何かね、父も長男だったんですけど、
本当は別に進みたい道があったみたいなんですよ。
でも結局その道をあきらめて、医者になったようです。
だから僕には強要したくなかったのかもしれないですね」
医者になれとは言われなかったが、倉田さんは父親から
「手に職をつけろ」と言われたそうだ。
倉田さんは自分なりに道を模索して、調理師専門学校に進学した。
ただその頃は、料理人として生きていく決意をしていたわけでもないし
いつかは地元で店を開こうと思っていたわけでもない。
そんな倉田さんの人生は、30歳の頃、大きく動くことになる。
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倉田さんは、専門学校卒業後、
大阪のイタリアンレストランに就職した。
「それから色々なことを経験して5年経った頃、
もっと刺激が欲しいなと思ったんです。それで、
29歳の時にイタリアへ行くことにしました」
20代最後の歳に、何か思い切ったことをやってみたいという
気持ちがあったそうだ。
倉田さんが滞在したのは、
フィレンツェから電車で約1時間の町、サン・ジョバンニ。
半年間ホームステイをし、
イタリア語とイタリア料理の両方を学べる学校に通った。
「でも、料理の方はクラブ活動みたいなもんだったんです。
そこで学ぶことはあまりなかったんですけど、
ホームステイ先のホストマザーがハーブ料理の研究家で、
めちゃくちゃ美味しい料理を作る人だったんですよ。
それと、学校の近くのレストランで働かせてもらえることになって、
それもいい経験になりました」
倉田さんは楽しそうにイタリアでの思い出を語ってくれた。
充実した日々を送っていたに違いない。
ただ、良いことばかりではなかった。
日本から、父親の体調が思わしくないという知らせがあったのだ。
帰国後は大阪で働いていた店に戻るつもりだったが、
まずは実家に向かった。
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「父親の様子を見ながら福山市内で働いていたんですけどね。
2年くらいして、父が亡くなりました」
だいぶ前のことだからだろうか。倉田さんは淡々と話す。
「母も病気がちだったので、福山から離れるわけにはいかなくて。
それでそのまま何年か働いていたんですが、そのうち母親の病状が
悪化してきて、僕が働きに出るのが難しくなったんです」
働かなければならないけれど、母の世話もしなければならない。
一番いいのは実家で店を開くことだが……。
「問題は、鞆でイタリアンレストランが繁盛するかってことですよね。
気心の知れた人達に相談してみましたけど、
やめとけって言われましたねぇ。でも、やるしかないでしょう?」
倉田さんは笑顔で言う。
「僕ね、イタリアへ行ってから
あまり後先のことを考えなくなったんですよ」
イタリア人は、基本的に時間は守らないし、
老後のことなどはあまり考えない。
悪く言えばルーズだけれど、良く言えば大らか。
倉田さんはそんなイタリア人達を見て
「こういう生き方もいいんじゃないか」と思ったそうだ。
後先を考え過ぎていると、動けなくなってしまう。
倉田さんは、留学以降、
自分の中に芽生えていた「イタリア人的感覚」に従って、
鞆の浦でイタリアンレストランを開くことを決意した。
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倉田さんは、2008年2月のオープンを目指して、
店づくりを開始した。
「店ができはじめると、近所の人に『いつはじめるの?』
と声を掛けられることが増えて、
期待してくれてるんだなぁと思いました」
懐かしそうに、けれどどこか寂しそうに話す倉田さん。
それには理由があった。
「だけどオープンの2週間前にね、母親が亡くなったんです」
母のそばにいるためにここに店をつくったのに、
店をはじめる前に母が亡くなってしまったのだ。
どれほどショックだったことだろう。
倉田さんはやはり、淡々と話し続ける。
「それで葬儀なんかを済ませて、
母の四十九日に店をオープンさせたんです。それから1カ月くらい、
地元の人が入れ替わり立ち替わり来てくれました。
その頃は個人で来てくれることが多かったんだけど、
ここ数年は地元の人がグループで来てくれるようになりましたね。
オープン当初から
地元の人に愛される店を目標にしてやってきましたけど、
多少受け入れてもらえてるかなって思ってます」
そう言って、優しい笑顔を見せる倉田さん。
控えめながらも、地元の人に支えられ、
愛されているという自負が感じられる。
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「でも今、気になっているのは……」
少し考えてから、倉田さんは言った。
「鞆の観光業が成長してないっていうことなんですよね」
鞆の浦は映画やドラマのロケ地になることが多い。
その度にメディアの注目を集めるので、
観光客は増えるのだが、それが継続することがないのだ。
「その年だけ、観光客の数が一気に増えるんですけど、
次の年はがくんと落ち込むんです。浮き沈みが激しいというか。
ロケ地になるとかそういうことを当てにする他力本願だと、
結局いい結果は出ないってつくづく思います。
自分で何かやらなきゃなぁと思うようになりました」
倉田さんは、今までは「他力本願」で、
鞆の浦が観光地として成長していくことを願っていたそうだ。
しかし、自分から何かやらなければ状況は変わらない。
今、倉田さんは店の建物の2階を活用して
何かできないかと構想中らしい。
「それと、もう一つ僕が思っているのは、
外から来た人が暮らしやすい町にしたいっていうことですね。
僕はもともとここが地元で、Uターンで帰ってきたから、
最初から地元の人に受け入れられているっていう感覚があるんです。
でも、まったく別の土地から来た人にも
ウェルカムな町になってほしい。
そうしないと町がすたれちゃうだけですよね」
倉田さんは真剣な表情で話し続ける。
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「別の町から鞆へ移住してきた人がはじめた店があるんですけど、
ある地域の人が、うちの店に悪いからそこへは行かないって
言っていたんです。僕にとってはありがたい言葉なんですよ、本当に。
でも僕はね、気にせずにその店へ行ってほしいと思ってるんです」
「地元の人を支えたい」という気持ちを、
「ここに来てくれた人を支えたい」という気持ちに変えていって
ほしいと倉田さんは言うのだ。
「僕もね、前は鞆で店を開きたいという人に相談されても、
あんまり真剣に応えてなかったんです。
ライバルが増えるのは嫌だなって思って…。
でも今は、外から人が来やすい環境を
つくらないといけないと思っています。
だから、鞆に来たい人がいたら、その人の話を聞きたいですね。
僕ができるのは、助けてくれる地元の人につなげるくらいですけど…」
そう言って、倉田さんは照れた様子で笑った。
一度、鞆の浦を離れた後、戻って来てレストランをオープンさせ、
9年間一人で店を存続させてきた倉田さん。
自分が苦労したからこそ、これから鞆で何かをしたいという人を
支えたい気持ちがあるのだろう。
鞆に住んでみたい、もしくは店を開きたいという人は、
まず「鞆町カフェー/454」を訪ねてみるのもいいかもしれない。
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