太田家住宅の物語り
常夜燈に向かって、南にまっすぐ
石畳の小路をたどって行くと、
唐破風の下で、杉玉がゆらりと
ぶら下がっているのが見えた。
時が積もった造り酒屋の佇まい。
その格式―。
ぼくは、太田家住宅を見上げていた。
江戸期、海運で栄えた国際的な港町・鞆の浦。
その日本経済の中心の、そのまた「まんなか」。
公家をも招くその格調は、
なるほど説得力に溢れている。
けれども同時に、どこかモダンで、
開放的。
ぼくは不思議な予感を抱きながら玄関をくぐり、
市松模様の土間床をじりりと踏みしめた。
太田家住宅の物語り
ぼくが太田家住宅を訪れたのは、
ちょうどお雛様が鞆の町並みを
春色に染め抜いている頃のことだった。
ぼくは受付の女の人からパンフレットを
受け取り、まずはぐるりと敷地内を
見て回ることにした。
格子柄の土間を抜けて、奥に歩を進める。
そこはかつて炊事場として使われていたようで、
かまどがあった。そして、そのすぐ脇には、
十二支をかたどった可愛らしい
お雛様が飾られていた。
炊事場を抜けるといったん屋外に出る。
すると、ぱあっと目を刺す白壁の酒蔵が、
空を大きく切り抜いていた。
蔵の壁にはサイコロの目のような
意匠が施されている。「1」、「4」…
奥のほうには「5」も見つけた。
なんとなく愛嬌がある。
これはナマコ壁といって、
火事や潮風から守るために、
壁の表面に平瓦を貼り、
その継ぎ目に漆喰を
盛り上げて補強したもので、
江戸時代から伝わる伝統工法だという。
かまぼこのように盛り上がった漆喰は、
うん、たしかに「ナマコ」に似ている。
釜屋に入る。
ここには名前どおり大きな釜があった。
ここで保命酒の主原料・もち米を蒸すのだ。
掘り込み式の焚き口も見ることが出来る。
福山市の教育委員会が調査・復元したもので、
当時の醸造風景が目に浮かんでくる。
それから、ぼくは太田家の敷地の北半分を
占める保命酒の酒蔵に足を踏み入れた。
太田家住宅の物語り
酒蔵の中は暖色に淡く照らされていた。
その一方で、春なのに肌をなでる空気は、
ひやりと冷たい。
蔵は南側の入口から、北に向かって
細長く伸びていた。
天井には曲がりくねった黒くて大きな梁が、
一定の間隔をあけて並んでいる。
両の壁側には保命酒の貯蔵甕や、
酒造りの際に使う大きな柄杓、
木桶などが置かれている。
そして、その甕の上には雛人形たちが、
居住まいを正して座っていた。
ものすごい数だった。
「箱雛」や「裃雛(かみしもびな)」といった、
年を経たお雛様たち。
敷地の一番東側には新蔵と呼ばれる蔵があった。
新しいといっても、建築年代としては、
十九世紀前半のもので、十分に年はとっている。
この新蔵は、今では催事場として使われているようすで、
立派な段組のお雛様が大きく飾られていた。
圧巻なのは、和紙人形たちのジオラマだった。
舞台は顔見世大歌舞伎。
その小世界の中で、二百体以上の和紙人形たちが、
活き活きと生活していた。
この群像劇、実はひとりの職人さんの
手によって生み出されたものらしく、
さらに驚かされるのは、その職人さんは、
八十四歳のおばあちゃんだということ。
それは、ほんとうにすごい話だ。
その群像の中には水戸のご老公一行の姿もあって、
その茶目っ気には頬が緩む。
きっと可愛いおばあちゃんが作ったんだね。
太田家住宅の物語り
ぼくはぐるりと敷地内をめぐり、
主屋に帰ってきた。
主屋だけでもかなりの部屋数があった。
ぼくはさわやかな藺草の匂いを鼻腔に感じて、
心地よい懐かしさを味わう。
箪笥階段も見つけた。
名前のとおり箪笥が段々をなしているもので、
やっぱりどこか懐かしい。
別に、幼い頃に箪笥階段のある家で
過ごしたわけではないのだけれど。
この感覚には、
いつも不思議な戸惑いを覚えてしまう。
大広間に入ると、ガイドさんの話に
耳を傾けている観光客の一団を見かけた。
―「鞆七卿落」の話。
尊皇攘夷の旗頭である三条実美ら
七人の公卿は、文久三年(一八六三年)に
起こった公武合体派のクーデター・
「八月十八日の政変」によって、
京の都を追われ長州へと下っていった。
実美らが太田家住宅(当時の中村家・保命酒屋)で
憩ったのは、再び京都を目指した、
翌・元治元年(一八六四年)七月十九、二十日のことだった。
実美はその両日の間に、
保命酒を讃える歌を残している。
明治初期の歌集『竹葉集』にも掲載された一首。
世にならす鞆の湊の竹の葉を
かくて嘗むるもめずらしの世や
「竹の葉」というのは、「酒」の異称で、
竹の葉に集まった露を集めると
酒になるという中国の故事にちなんだ言い回しだ。
「保命酒」を「竹の葉」という雅語で飾って一首詠ずる。
その時の都落ちの貴人の心境は、
いったいどんなものだったろうか?
動乱の渦中にあった実美だが、
ここ太田家住宅で供された「保命酒」を
喫することで、きっと、ひとときの酔いに遊び、
憩いを得たのだろう。
太田家住宅の物語り
店土間に戻ってきた。すると、
受付の女の人がぼくに話しかけてきてくれた。
「堪能されました?」
「とっても」とぼくは答えた。
「歴史を感じるし、それでいてどこか
モダンというか。とくにここの床なんて」
「そうですそうです。この足元の市松模様ね、
オランダの画家のフェルメールさんの
絵にあるいうことでね、昔から
色んな文化が入ってきているのね」
鞆の浦はかつて海運で栄えた商業都市。
北前船が来たり、朝鮮通信使が来たりと、
国際的な繁栄を見た港町だった。
しかし、フェルメールとは…。
どこかで見た床だとは思っていたのだけれど。
「この格子模様、黒いのが瓦、白いのが漆喰。
普通、土間って言うと、土や三和土(たたき)でしょ。
でも当家はおしゃれなのね」
修復前の床も一部残っていた。
少しくすんだ格子模様。
当時の人には、さぞかし前衛的に
映ったことだろうと思う。
「この道を挟んで湾に面して建つのが、朝宗亭」
女の人は玄関のほうを指さしながら言った。
「こっちな、福山藩主も滞在した当家の別邸です」
この朝宗亭は、雁木(潮の潮位に合わせて
船着けすることができる石階段)の上を
占有するようなかっこうで、鞆湾に面して建っている。
それはつまり、専用の船着場を持っているということ。
まさに大店の船問屋といった貫禄を感じる。
太田家住宅は鞆の顔―
うん、素直に納得できる。
太田家住宅の物語り
「向こうの別邸の朝宗亭はね、来客用」
そう言ってから、受付の女の人は
くるりと向きを変え、主屋の畳部屋の方を
指差しながら続けた。
「こちら見て。本邸の方の壁ですけどね、
赤い壁は江戸中期のものでね、家族の部屋。
あとの白い壁は来客用として
江戸の後期に建て増ししたの」
そして、来客用の部屋には裏口があって、
誰とも顔を合わせずに出入りすることができたという。
「蔵の方に出ていただくとね、
梅が咲いてた思うんじゃけどね、
そこから出たり入ったりできたんです」
江戸時代の太田家住宅は、
鞆の名産の保命酒を幕府に献上しながら、
裏では来客(お殿様、文人・墨客)に
秘密の空間を提供していたのだ。
受付の女の人は、店土間の天井を見上げて言った。
「これね、網代(あじろ)天井。竹で編んでるのね」
こげ茶色と薄茶色の竹で交互に
編まれた天井板が見えた。そして、奥へ進み、
また天井を見上げる。
「で、こちらはすだれ張り」
ぼくも見上げてみる。ほんとうだ。
たしかに、すだれ状に編み込まれた天井板が
そこにはあった。
「これはね、お茶の作法を取り入れてる。
お客さまのおもてなしの天井は、竹で編んだ網代。
お茶を点てる亭主側は質素なすだれ張り。
お茶室の決まりごとです」
そして、畳の間に視線を移して続ける。
「それでね、当家にはたくさんお茶室があって、
当時は、ビジネス・商談の場に使ったらしいんです。
一番奥の方には、一畳と四分の三のお茶室、
『一畳台目(だいめ)の茶室』いうのがあってね、
そこは、お殿様などの身分の高い方のおもてなしの
場として使われたの。
奥の座敷にも炉を切った部屋があります」
「炉を切る?」
「床を四角く切り取ってお茶を
点てるための炉を作ることね。
二階にも茶室があってね、この住宅内には
きちっと炉を切った部屋が四つあるんです。
そして、炉は切ってなくても、建物全体が
数寄屋造りだから、どこでもお茶の
まかないができますよ、いうこと。
そういう粋な方だったの、ここの方は」
さらに受付の女の人は、舞良戸(まいらど)に
ついても教えてくれた。
一枚板に細い桟(さん)を渡した引き戸のことを
そう呼ぶらしく、たしかに雅で粋だ。
「さきほど見ていただいた七卿の部屋にもね、
見えないところで粋なこだわりがあるんです。
長押(なげし)にも京都の杉の面皮柱(めんかわばしら)を
一本使ったりね」
商家のおもてなしの心を見た心地がした。
太田家住宅の物語り
保命酒の起源は江戸時代の
初期にまでさかのぼる。
「今ここは太田家となっていますが、
昔はね、中村家だったんです。
大阪の中村吉兵衛さん言うね、
漢方の医者の息子さんが、
大阪で大洪水にあって家屋敷を
流されたそうなんです。 それで、鞆の知人を頼って
移住してこられたんです」
それから受付の女の人は、
生薬の陳列棚を指して続ける。
「ここに薬草並べてます。
まず、もち米と焼酎と麹を使ってみりんにし、
その中にこれらの薬草をつけて、
中村さんは保命酒を作られた。
漢方医の息子いうのがあったんですね。
十六味地黄保命酒。ここが本家本元」
中村家は、萬治二年(一六五九年)に
藩に願い出て製造販売を開始し、
宝永七年(一七一〇年)には、
醸造販売の独占権を藩から与えられたという。
「でもね」と、受付の女の人は言う。
「明治になって江戸幕府がなくなるとね、
専売権がなくなっちゃってね、同業者も増えて、
中村家は衰退するんです。
で、一九三〇年代に鞆の豪商の
太田さんに買われて、現在に至ります」
歴史を刻んで今日ある保命酒。
三条実美ら鞆七卿や、江戸時代後期の
思想家・頼山陽、それに朝鮮通信使など、
数多くの名士や文人・墨客に愛されてきた保命酒。
そのはじまりの場所が、ここなんだ。
太田家住宅の物語り
受付の女の人は、太田家住宅を
ほんとうに誇りに思っているみたいだった。
熱心で丁寧な語り口から、それがよく伝わってきた。
歴史の重みを感じさせる一方で、
洒脱な国際感覚もある。
伝統と先進性を併せ持つ太田家住宅の「粋」―。
昔の文人・墨客だけでなく、
現代に生きるぼくたちにも、
そのよさはきっと理解できる。
だからこそ、この太田家住宅を愛し、
保存しようと力を尽くそうとする人たちがいるのだ。
受付の女の人は店の間の方に向き直って言う。
「今ひな祭りで、お雛様並べてますでしょう。
そこへ風が通ると、お雛様のお帽子なんかが
取れちゃうんですね。だから襖や障子を
閉めてますけどね、普段は開いていて、
すると路地庭が額縁の中の絵に見えるんです」
ぼくはそれを想像して、つい感嘆の声をもらす。
視覚的なアイデアに満ちているのだ。
この太田家住宅が
今も愛され続けている理由が 分かった気がする。
―そう、お客をもてなそうとする心遣いが、
ふわり、息づいているということ。
ぼくは、まるでこの住宅そのものに、
おもてなしの優しい心が宿っているかのように感じた。
やさしいおもてなし、どうもありがとう。
太田家住宅の物語り
他の物語りを読む