静観寺の物語り
鞆湾から鞆町後地に向かって、北に伸びる一本の通り―。
この「寺町通り」と呼ばれる南北の筋には、
その呼び名に相応しく、各宗派のお寺さんが軒を連ねている。
その「寺町通り」のちょうど真ん中あたり、
山中鹿之助の首塚を正面に見て、それから、左に視線を移す。
すると、年を経た本瓦葺きの山門が、さわりと目に映じる。
―臨済宗・正覚山静観寺の表門。
門をくぐると、空気の流れが、しんと変わった。
時をぴたりと留めたかのような清閑な境内には、
わずかな葉擦れの音があるばかりだった。ただ、静謐。
ぼくは、陽の光に透けた桜若葉を眺めながら、
古刹の佇まいを見せる本堂へと、足を進めた。
静観寺の物語り
本堂に入ると、ご住職が迎えてくれた。
その福相に浮かぶ笑顔は、とても大らかだ。
居室に通してもらい、そこでお話を伺う。
「ここの山門を境に雰囲気が
しんと変わったような気がしました。
なんだか、境内の空気が止まっているみたいな」
ぼくがそう言うと、ご住職は放胆に答える。
「この町自体が止まってるようなものだからね」
あははと笑い、それから、ご住職の
「鞆の寺町語り」が、はじまる。
「この静観寺は鞆で一番古いお寺で、
八〇六年に最澄が開基したと伝えられています。
それまでの仏教ってのは、政治、つまりは
貴族のものだったんだけど、最澄、
空海あたりから、庶民にも拡まっていった。
そうすると、この鞆の町にも、あれよあれよと
お寺が増えてね、最盛期、江戸中期には
四十数軒のお寺さんが建っていた」
ぼくは、「この小さな町に?」と驚いて聞く。
「そう、猫の額のような、この鞆の町の中に」
ご住職は笑いながら続ける。
「檀家のために建てられた寺っていうよりも、
豪商や大名のマイテンプルっていうかね」
マイテンプル?
「昔の鞆港は、今で言うと横浜並みの
港湾機能を持った港でね。
補給もメンテナンスも出来た。
で、船乗りが遊ぶ場所もいっぱいあると。
鞆は、そういう商業港として、
発展を遂げたところだった」
ぼくは、多くの商人や船乗りたちが
活発に行き交う、往時の鞆港の喧騒を
思い浮かべた。
「でも、当時はまだ、入船の詳細な
タイムスケジュールなんてなかった時代で、
『待ち船は、どうも桜の散るころには来そうだ』
なんてね」
ご住職はかんらと笑いながら、続ける。
「しかも、支店や出張所なんて概念もなかった。
そうすると、地方から鞆港に出張ってくる商人なんかは、
今と違って車があるわけでもなし、だから、
前もって宿に泊まり込んでなきゃしょうがないと」
なるほど、だからマイテンプルなんだ。
「そう。自分のお寺を建てとけば、
そこを根城に出来る。あるいは西国あたりの
大名が、参勤交代の中継基地として使う。
また、朝鮮通信使が江戸に向かう途中に、
大使はどこ、副使はどこ、通訳はどこ、
って按配で役職ごとに分宿させたりね。
そういうふうに、ホテルとか旅館みたいな機能が、
その頃のお寺にはあったわけ」
さすがは、当時の国際的商業都市だ。
そういったお寺さんの宿泊サービスからは、
からっとした開放的な合理精神が感じられる。
「でも、明治に入って以降、海運から陸運へと
物流のあり方が変わって、いっしょに商業の
考え方も変わっていった。そうして、
いわゆる豪商はみんなこけた。
加えて、廃仏毀釈(きしゃく)。
まあ、仏教弾圧って言うと少し語弊があるけれど、
そういったことによって、鞆の寺院の数は
いっぺんに減って、二十数軒に。後に、
さらに統廃合されて、今残ってる寺は、十九軒」
十九軒―減ったとはいえ、町の面積あたりの
数を考えると、まだまだ十分に多い。
「まったく、四十軒もお寺が建ってた頃は、
庶民はどこに住んでたんだっていうね」
ご住職は、そう言って、また気持ちよく笑った。
静観寺の物語り
ご住職は話を続け、ぼくは聴き入る。
「そういう長い歴史を経て、
このお寺は今日あるんだけれど、
なかなかに難が多かった。この静観寺は、
世間では『鞆で一番災難の多い寺』なんて
言われたりもしていてね、
たしかに、創建から千二百年の間に
五回も焼けてる。全部焼失」
五回も全焼?ぼくは驚いて尋ねる。
「そのことについては、
文献かなにかに書かれているんですか」
「寺には記録は残ってません、
なにせ丸焼けだからね。
でも外部の資料には残ってる」
そういって、ご住職は静観寺の、
いわゆる「多難」な歴史を物語る。
「繰り返しになるけど、このお寺の開基は
八〇六年。比叡山延暦寺を建立したことで
有名な最澄が、唐(中国)への留学の帰りに、
この地に立ち寄って創建しました。
鞆に滞在中に一心三観っていうね、
仏教のひとつの思想なんだけど、
それを完成させた。つまり、お悟りを開かれた。
それを記念して静観寺を建立したわけです」
なるほど。遣唐使の留学僧が立ち寄るなんて、
当時から、やはり鞆はかなりの規模の
港だったのだ。ご住職は続ける。
「その頃の静観寺は敷地面積七千坪。
七堂伽藍が完備されていて、
お寺の機能が全部揃っていました」
七千坪?そんな広大な敷地のお寺が
この町にあったなんて、ほんとうに驚きだ。
「でも、焼けるたびにどんどん小さくなっちゃってね。
それに、創建の時には、このお寺は天台宗でしたが、
室町時代になると禅宗の臨済宗に変わっている。
天台宗だった頃に二回焼けて、
で、臨済宗になってからも、
そこからさらに三回焼失しています」
戦禍や落雷に見舞われたらしい。
たしかに、「多難」だ。
「臨済宗になって以降、うちの本尊は
『お地蔵さん』なんですが、その三回とも、
奇跡的に難を逃れてきました。
最後に焼けた時なんて、あんまり火の回りが
早かったものだから、本尊さんも過去帳も持ち出せずにね。
本尊さんはもちろん、過去帳っていうね、
故人のご戒名などを記録したものなんだけど、
このふたつばかりは、お寺にとって
一番大切なものですから」
轟々と炎上するお堂。
不意にぼんと響く不吉な破裂音。
空を焦がす炎の尾からは、黒々とした煙が
どろどろと立ち昇っていく。
その時の住僧らの絶望は、
いかばかりのものだったろう。
ご住職は続ける。
「そして、『ああ、焼いちゃったあ』って、
寺の者が悲嘆に暮れている時に、
ふと山門脇の松の木の上を見上げてみると、
そこにはなんと、お地蔵さんが乗っかっておりました、と。
そういうわけで、うちのご本尊さんは
『松上げ地蔵』って呼ばれているんです」
不思議なこともあるものだ。
火の勢いで松のところまで飛ばされたのか、
あるいは、近所の有徳の士がこっそりと救い出したのか。
ご住職は付け加える。
「だから、うちのご本尊さんのお顔には、
焼き痕があるんです」
静観寺の物語り
しかし、度重なる火災や戦禍で
確実に体力を削られてきた静観寺が、
よく明治維新の廃仏毀釈を乗り越えられたものだ。
ご住職は言う。
「その理由はね、静観寺が、祇園さん、
つまり沼名前神社の宮司の菩提寺だったからです。
朝廷から代々位階を授けられる祇園さんの宮司は、
とても格式高い存在。静観寺は、
その宮司の菩提寺だからって、
廃寺にならずに済んだんだろうね」
静観寺と沼名前神社がそんな
浅からぬ間柄だったなんて、知らなかった。
「ちょうど話題にも上ったし、
うちのお寺とも関わりがあることだから、
ちょっと祇園宮についてお話ししようか」
ご住職は続ける。
「祇園さんて言うと、鞆だと沼名前神社。
九州だったら博多の櫛田(くしだ)神社で、
京都なら八坂神社。そして、それらの祇園さんと、
この静観寺には、実は共通のものがある」
そう言ってご住職は、本堂のご本尊
「松上げ地蔵」の前に、ぼくを案内する。
「これね、祇園宮の紋。
俗に『きゅうり紋』って呼ばれています。
きゅうりを切ったように見えるから」
ほんとうだ、その意匠はたしかに、
きゅうりの断面図に似ている。
「で、なんで祇園さんの紋が
『きゅうり』なのかっていう伝説がね、
実はこの鞆を舞台にして伝えられている」
―「きゅうり」と「祇園さん」と「鞆の浦」。
ぼくの中で、まだこの三つは繋がらない。
「祇園宮の祭神ってのは、スサノオノミコトでね」
と、ご住職は話し始める。
「そのスサノオノミコトが熊野征伐のために
鞆の地に立ち寄った。そして、
『ああ腹減った、なんかごちそうしてくれ』ってね、
その辺の民家に飛び込むんです。
で、雑穀飯と、タコときゅうりの
和え物をごちそうになる」
なるほど、「きゅうり」が出てきた。
「そして、熊野征伐の帰りに、
スサノオノミコトは忘れずにその民家に立ち寄って、
一飯のお礼として色んな技を家人に伝授します。
そのひとつが、柿から渋をとって、
その渋を網とか漁具の防水剤や撥水剤として、
あるいは防腐剤として使う、柿渋の使い方。
たまたまね、備後っていうのはいい柿渋が
採れる柿が育つところでね」
それ以来、柿渋作りという産業が始まったという。
また、鞆で一番古い屋号に、渋柿屋というものが
あるという話。ほんとうに、神話と地続きだ。
「そしてもうひとつ、スサノオノミコトが
残したものは、『蘇民将来符(そみんしょうらいふ)』
っていう護符。家の門に飾って、
疫病を祓うお守り札ね。これは、今でも、
沼名前神社で行われる『茅の輪くぐり』に
伝えられている。あの茅(かや)で作った輪っかを
潜ると、一年間無病息災。そういうのを伝えたのも、
スサノオノミコトなんです」
鞆の祇園さん・沼名前神社では、
スサノオノミコトの「きゅうり紋」を掲げ、
その故事に則った年中行事が今でも行われている。
そう考えると、なんというか、
ロマンを感じやしないだろうか。
「伝承ってのはおもしろいものでね」
と、ご住職は言う。
「スサノオノミコトからもう二千年くらい、
まあ厳密にはわからないけれど、
すごい時間経ってるでしょう。
そうするとね、同じ根っこでも、
正反対の解釈になったりする」
つまりね、とご住職は言葉をつなぐ。
「八坂神社と、九州の博多祇園祭の櫛田神社では、
祭礼期間中、神様のもんだって言って、
絶対にきゅうりを食べない。特に博多の人間なんか、
山笠の期間中に、山笠関係者がきゅうり食べると
けがをするって言って、「きゅうり断ち」なんてのが
あるくらいなんです。
鞆ではね、まったく逆。 神様が好きなんだからって言って、
鞆の祇園さんの祭礼では、
必ずきゅうり食べるのね」
うん。伝承っておもしろい。
まるで、伝言ゲームみたいだ。
でも、伝言が徐々に変質しようとも、
神様を敬う気持ちは、きっと
どこも正しく伝わっているんだろうね。
静観寺の物語り
ぼくらは、居室に戻ってきた。
すると、一匹のねこが縁側のほうで、
にゃあと鳴いた。ぼくはそれを目で追ったが、
するりと庭へ姿をくらませてしまった。
「今は、鞆も人口がどんどん減って、
年寄りとノラ猫の町になってますけど、
さっきのも捨て猫。主のいない流れ猫が、
どこからともなく集まってきてね、
まるで現代版落ち武者だっていうね。
あのノラは勝手に居ついたんですよ」
そう言って、ご住職は優しく苦笑する。
「落ち武者って言えば、奈良時代あたりは、
九州に左遷させられた連中が、道中ここに立ち寄って、
あ、ここいいな、ここに決めた
なんて言って住み着いた連中もいたし、
源平の戦の時には、負けた平家だけでなく、
勝った源氏の中にもね、もうウチに帰るのも面倒だから
この辺に住むかっていう無精者なんかもいてね……
まったく、鞆には流れ者がよく居つく」
ご住職はそう言って、
庭のほうをちらと眺めて、また続ける。
「で、その流れ者の大物って言えば、
室町幕府の最後の将軍・足利義昭。
信長が天下獲りに利用しようと一回担いだんだけど、
面倒臭くなって京都から追っ払っちゃった。
で、義昭が落ち延びた先が鞆なんですよ。
なんで鞆かっていうとね、足利氏にとって、
鞆は縁起のいい町だからです」
室町幕府の祖・足利尊氏が、この鞆の地に滞在し、
弟の直義と軍議を開いたのだという。ご住職は続ける。
「具体的には、この静観寺から北にちょっと行くと
小松寺ってのがあってね。平清盛の嫡男・重盛ゆかりの
手植えの松があったところ。そこに滞在中に、
尊氏は光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けて、
意気軒昂、おおうと京に攻め上って、
室町幕府を打ち立てた、と」
足利氏にとっては、鞆の地は、幕府開闢への
大きな流れを掴んだ吉兆の土地だったんだ。
縁起を担いで、義昭が落ち延びてきた気持ちも、わかる。
「で、信長に追われて鞆の地に入った足利義昭は、
毛利を頼る。毛利のほうは、この静観寺を本陣として、
輝元が自ら義昭を迎えてね。そうして、義昭の亡命政府は、
輝元の庇護の下、『鞆幕府』などと称されるんだけど、
義昭は鞆に数年滞在した後、結局、津之郷など
備後近辺を転々とすることになる」
そしてね、とご住職は少し息をためて言う。
「その放浪の間に、信長の時代も早や過ぎ、
もう次の秀吉の時代になっていた。
もうそろそろ足利の殿さん許してやろうよ、
ということでね、義昭は京に呼び戻されるんだけど、
呼び戻された時には、もう、とっくに
室町幕府はなくなってた」
―なるほど、 「室町幕府は鞆で生まれて、鞆で滅びた」、か。
まったく、皮肉な話だ。
静観寺の物語り
ご住職のお話を聞けば聞くほど、いよいよ、
鞆とは特殊なところだなと思う。
沼隈半島の南端にぽつんと位置するとはいえ、
鞆の浦は福山市と立派に陸続きのはずなのに。
ご住職は言う。
「実はこの鞆の町はね、厳密に言うと、
言語も文化も福山のものとは違うんですよ。
俗に、福山は『みゃーみゃー言葉』って、
言われてるでしょ」
みゃーみゃー言葉と聞いて、ぼくは名古屋弁を思い出す。
「それはね、初代福山藩主・水野勝成が、
徳川将軍から福山十万石を与えられた際に、
今の愛知の辺りから、ごっそり人を連れてきたからなんです。
それが福山のルーツだっていうね」
やっぱり、福山の根っこは名古屋あたりに
繋がっているというわけだ。それなら、
みゃーみゃー言葉も、納得。
「でも、鞆は全然別」ご住職は言う。
「ずっと古い時代から人の行き来が盛んで、
いろんな言葉がごちゃごちゃ入ってきてるしね、
敬語がそのまま庶民の言葉になっている」
「敬語が?それは例えば、どんな言葉があるんです」
ご住職は、身振りを交え、教えてくれる。
「例えば、『あんたちょっと、こっちに来てつかいや』とか
『持ってってつかい』なんてね。この『つかい』っていうのは
『つかわす(遣わす)』でしょ」
ほんとうだ。敬語が鞆独自の方言として定着している。
これはやはり、鞆が商業港だったこととも関係があるのだろうか。
「わたしらがガキんちょの頃はね、小学校で
夏休みとかになる前に、休みの注意事項みたいな
用紙配られるわけ。今でもあるんじゃない、
これしちゃいけない、あれしちゃいけないとか、ね。
で、鞆はいろんな人が来られるから、
汚い言葉を使っちゃいけないってね。
一例として、『おばん、これつかいや』―駄菓子屋にね、
『おばちゃん、これちょうだい』ってのをね、
そういう風に言った。で、先生はこれが駄目だっていうのね。
でも、この『つかい』って言葉、考えてみたらね、
『つかわす』から来てるから、別段汚い言葉じゃないんだよね」
「それとね、戦後、鉄工が景気良かった頃はね、
鞆ってものすごい、エンゲル係数高い町だった。
おいしい物、いい物を食べる。港町だし、
そういう気風があったんだろうね」
そして、ご住職は豊かに笑いながら続ける。
「だからね、娘たちは鞆から他のところには、
お嫁に行きたがらないんですよ。
おいしい物が食べられなくなるからって」
あはは、町が胃袋をがっちりと掴んでいるんだね。
「だから、わずか隣町でもね、
いろんな習慣・文化ってのが、
がらりと違うところですからね。例えば、
仏様にあげる御膳ひとつをとったってね、
隣町にいったら、まったくスタイルが違う」
鞆は、独自の色がある町なのだ。
―どこまでも、鞆色。
静観寺の物語り
「鞆の町がユニークなかたちで発展していったと
お話したけどね、肝心要は、やっぱり水なんです。
港なんて、水が補給できなかったらどうにもならない」
たしかに。でも、鞆には川はないはずだ。
どこから水を引いているんだろう。
「鞆には清水が出るんですよ。湧水ね。
こんな海の近くでも水脈に当たれば、
ふんだんに湧いてくる。昔は共同井戸っていうのが、
町のあちらこちらにありました。
水資源が豊富だったから港として発展できたっていう
背景が、まずひとつね」
それとね、とご住職は心持ち、体を前傾させて続ける。
「もうひとつ大切なことは、
基幹産業があったということ。鍛冶屋。
もともとは鞆には、町工場というか、
一階に作業所がある民家がたくさん並んでた。
入ったらすぐ土間でね。そこに鉄を焼く機械が
一台据えてあって、それから、焼いた鉄をまた機械で、
わたしら『ガチャガチャ』って呼んでるんだけど、
それで叩いてね。釘を、舟釘を作るんです。
あと、旋盤なんかもあって、そりゃ、色んな物を作ってた。
ほんとうに、鍛冶屋さんが群れを成して
住んでるような町だったから」
ぼくは、かんかんと鉄を叩く音が鳴り響き、
旋盤が盛んに火花を散らす、音と熱気に溢れた鞆の町を
想像してみた。今の穏やかな鞆の風景とは、
まったく異なったイメージが鮮やかに浮かんでくる。
ご住職は続ける。
「そういう民家の作業所が徐々にくっついて会社になり、
鉄筋を作るようになった。色んな船の廃材を買ってきては切って、
そして、それを焼いて、圧延機でどんどん棒状に伸ばして。
鞆は道路が整備されてないけども、その代わり
船積みっていう得意分野がある。海の端で鉄打ってるわけだから、
そのまま船に積んじゃえば輸送の経費も抑えられる」
小烏(こがらす)神社の北側から、今の鉄工団地のほうにかけて、
つまり、鞆の北東の海岸付近のエリアには、昔は工場が
たくさん軒を連ねていたという。
「だから、わたしのガキの時分、つまり五十年前くらいかな、
その時分なんて、こんな狭い町に銭湯が何軒あったことか。
五、六軒はあったんじゃないかな。
工場で働く人が多かったから、需要があった。
それに映画館だって二軒、そのひとつは舞台にも早変わりする、
演劇も出来る映画館だったよ」
ご住職は、かつての産業盛んなりし鞆の町の風景を、
懐かしそうに遠く眺めていた。
静観寺の物語り
ぼくは、ご住職の鞆を想う気持ちを、見た。
この狭い町で、たしかにかつての鉄工業の
活況を取り戻すのは、容易なことではないのだろう。
ご住職は言う。
「鞆の町は狭い。通りには重機なんて入らないし、
だから、急に産業をどうこうっていうのも難しい。
でもね、鞆の独特の気質っていうのは、
その狭さからも生まれてきているものだと思います。
壁を共有している家ってのもありましたからね。
天上天下唯我独尊ていう、自分が自分が、ってんじゃあ
生活できない。人との近さ、ね。それこそ、
夫婦喧嘩なんて始まろうもんなら、
十人や二十人なんかすぐに集まってくる。
かあちゃんが晩ご飯に悩んだら、
ちょっと窓開けてみりゃあいい。
そうすると、お隣さん見えるから、
ああウチもそれにしよってなもんで」
共同体が、今もしっかりと生きているんだ。
かかと大笑するご住職の姿を眺めていると、
このからりとした開放的な明るさと人情こそが、
鞆のいちばんの魅力なんじゃないかと、ぼくは思った。
静観寺の物語り
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