正法寺の物語り
鞆の寺町を北に折れる。
低く垂れる民家の甍屋根をくぐりながら進む。
そうして、不意に足元の道が石畳に変わる。
一転しゃなりと引き締まる街並み。
風景に溶け込むような、小さな漆喰の白壁。
それは決して来る者を拒むものではなく、
ただ「境界」の存在を謙虚に示しているのだった。
やがて常盤木(ときわぎ)の陰に慎ましやかな山門、
紫紺(しこん)の幟が立った脇を抜けて、「境内」に入る。
元より喧騒からは程遠い町。
その中にあって、なお一層の静けさが佇む。
慶長三(1598)年創建、臨済宗は妙心寺派末寺。
清(さや)かに穏やかに時間の流れる、正法寺の物語り。
正法寺の物語り
本堂の前で出迎えてくれたのは、住職の栗原さん。
淡青(たんせい)の質素な法衣に身を包み、
背筋はきりと伸びている。
「初めはここが渡り廊下で、最近直したんです」
そう言って、北のお堂へと至る一間に案内してくれる。
「この座敷でお茶が出来るようにと」
口調は淀まず、一言、一言を明瞭に。
凪(な)いだ水の上を歩いているかのような、
自然体の声音(こわね)。
「戸を閉めると、床の間になり、
こうして、壁に軸をかけたりして。
戸を開けたら、碾茶(てんちゃ)いうて、
仏様にお茶をお供えするときに、
使うこともできるいうことで、こうしているんですね」
戸の開閉によって、空間を閉じたり、開いたり。
それによって、部屋の用途を変えて―。
住空間を上手に利用する知恵と遊び心が、
なんとも、心地好い。
畳の上には、鈍い光沢を放つ茶器が並んでいる。
まるで昔からそこにあったかのような、ひとつの調和。
正法寺の物語り
正法寺の毘沙門天像はかつて秘仏だった。
仏像の公開は大正期だが、由来は創建時にまで遡る。
寺院の建立に際して、「鬼門」が北方だということ。
そして、寺院自体も鞆の町では北側に位置していたことから、
四天王として北方の守護神たる、毘沙門天を祀ったのだった。
長く秘され、歴代の住職も、
厨子(ずし)の開閉さえしなかった中で、
寺にはこの像にまつわる独特の真言が伝わっている。
オン ニコニコ腹立てまいぞ ソワカ
毘沙門天は武神ゆえ、その相貌は一般に険しい。
いま仏に相見える自分自身も、そんな顔をしていないか。
誰か親しい人に腹を立てて、笑みを失っていないか。
単なる仏への親しみ、あるいは、恐れなどではない。
仏を鏡として見る精神が、そこにはあるのだと栗原さんは言う。
そうして自らを省みた上で、「ソワカ」(お願いするのだ)と。
厳しい表情を湛えた毘沙門天の、
仏としての深い慈悲に、触れる。
正法寺の物語り
本堂の玄関脇には、小さな壺が置いてある。
その脇に植わっているのは、多羅葉(たらよう)の木。
葉の裏面に傷を付けると黒く変色し、そのまま長く残る。
よく似た性質の多羅樹という木がインドにあって、
この木は、初期仏教の布教に際して、
経典の記録に使われていたという。
この多羅樹が、多羅葉の名前の由来となっている。
「『葉書(はがき)』という言葉の、
語源になった葉っぱなんですね。
江戸時代は紙や墨が貴重だったでしょう。
だから、お寺にこの木がよくあって、
みんな字が書けないから和尚さんに代筆を頼んで、
それを飛脚が持って走ったという記録が残っていますから」
それが縁で、今では郵便局の木にも指定されているのだという。
もっとも正法寺の多羅葉は一味違う。
壺の脇にはよく研いだ割り箸が置いてある。
多羅葉を一枚取って、自分の願いをそこに書き込む。
あとは、それを壺の中に投げ入れれば、
ほうら、「思う壺」というわけだ。
端正な顔立ちを崩さない住職の遊び心が、
こんなところにも、ちらり。
正法寺の物語り
境内の枯山水では、“子どもたち”が遊んでいる。
立ったり、座ったり、寝そべったり。
笑ったり、祈ったり、考えたり。
さまざまな仕草や表情を見せる、小人のような地蔵たち。
「平成七年でしたかね、本堂前を直そうかとなったときに、
若い庭師さんと一緒に設計しまして」
寺の倉庫から出てきた古い地蔵だけでは物足りない。
そんなとき、栗原さんはある石工の存在を知った。
「馬越(まごし)さんという方、
今は作家の方で、四国にいるんですけどね。
その方がああいう童地蔵を彫っているんですよ」
庭は大きい円になっている。
そこにいくつもの丸い石。
栗原さんはこの庭のことをエンテイと呼ぶ。
それは『まど』の円であると同時に、『えにし』の縁。
童地蔵の遊ぶ庭の中で、人々の縁が交差する。
正法寺の物語り
人びとの輪が垣間見えるのは、庭園だけに留まらない。
本殿の襖(ふすま)に描かれた一幅の水墨画。
仙酔島の方から眺めた、ありし日の鞆の浦。
今はなき「メガネ岩」も、港に群れる帆掛け船も。
「これは描いたのが鞆の方なんですよ。
門田勝人さんと言って、もう八十近いおじいさんですけど、
元々、鞆の鉄鋼関係の会社をやっていた方が、
好きで昔から油絵を描いてこられて、
さらに、墨絵まで始められまして」
やはり平成七年頃、本堂を改修していたときのこと。
そこだけ白いまま残された襖が、何となく気にかかる。
住職のそんな話を聞いた門田さんが、さらりと一言。
じゃあなんか書こうか、と。
持って帰って一日くらい、さっと描き上げてしまったのだという。
そういう人は鞆には多いのだと、栗原さんはしみじみ語る。
日頃はぱっと見たら、その辺にいるおじいさんやおばあさん。
それが突然に紋付袴で能を舞ったり、謡(うたい)をやったり。
また、このお寺の奥座敷には、同じ門田さんの作で、
「十六羅漢図」が描かれた、水墨画の屏風絵もある。
このように、文化を伝え人びとを育む、歴史ある鞆の町。
そういう「場」にも支えられて、この寺は、今も豊かに―。
正法寺の物語り
栗原さんは正法寺の住職だが、平日は鞆を留守にしている。
京都にある本山の妙心寺、そこでお役に就いているのだ。
そんな多忙の中でも、土日は必ず鞆の浦に帰ってくる。
知人が来れば自ら近隣の観光案内もするし、
一般の人にも禅寺をもっと身近に感じてもらおうと、
折々に「禅カフェ」のような、楽しい催事を開くこともある。
庭先には花菖蒲の鉢植えがあった。
一つ、二つ。
両手では足りない。おそらく、数十。
「うちの家内が好きで、一生懸命育てていますから。
いまは茶色しか咲いていませんけど、
色々な種類がありますので」
白、青、桃、紫。
やがて、これらの花菖蒲は千々に咲き誇り、
そうして、境内は豊かな色彩で飾られて―、
そんなお寺の姿が、鮮やかに目に浮かぶようだ。
その中で、なおも気ままに遊ぶ童地蔵、
願い事の増えた「思う壺」、
そして何より、行き交う人びとには、笑顔があるだろう。
そんな時は少しだけ、
普段は森閑(しんかん)としたこの寺も、
居心地のよい賑やかさに包まれているのかもしれない。
正法寺の物語り
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