「鞆の浦 a cafe」と「常夜燈ポスト」の物語り
さらさらと聞こえる波の音を頼りに、
ぼくは路地を南へと進んだ。
石畳の整った地面を、両の家屋が挟むようにして道を作っている。
木造り、瓦、そして、この町を象徴する白い壁。
突当たりで家屋の並びは終わっていて、
左手に青い波が覗いた。
思い出したように続く石畳。
夏の潮風が気持ち良い。
そこから、なおも真っ直ぐ進んでいけば、
その先にはもう海原が広がっている。
けれども乗るべき舟は無く、
ぼくは海を横目に石の道を辿る。
そうして、あの常夜燈に行き着いた。
これが鞆の港を守り続ける灯りなのだと、
ぼくはしばしの間、感慨に耽(ふけ)る。
ほうと溜息をつき、
波の音と潮の香りを含んだ景色を見回して、
ふと、常夜燈の脇に佇むその店を見つけた。
店の白壁には、「鞆の浦a café」の文字。
脇には、いつからそこにあるのだろう、
真っ赤な丸い郵便ポストが突っ立っている。
ぼくは湧きだす好奇心に背中を押され、
そちらへ近づいてみることにする。
「鞆の浦 a café」 、
そして、「常夜燈ポスト」の物語り。
「鞆の浦 a cafe」と「常夜燈ポスト」の物語り
「a café」
この名前には、どんな意味が込められているのだろう。
ア、カフェ?
でも、看板を見る限り、
アット、カフェとも読める。
店の外観は江戸の街並みの一角のようだ。
古びた板張りの壁と、白い漆喰の壁、昔ながらの
瓦屋根を眺めていると、
ふと、タイムスリップしたような感覚にとらわれる。
漂ってくるニンニクの香り、
イタリアンだろうか。
ぼくは思わずごくりと喉を鳴らし、
誘われるように中へと踏み入れた。
意外にも、中はすっかりモダンなカフェで、
ほんの一時狐につままれた気分。
しかし天井を見上げれば、
そこには年季の入った味わい深い木々の連なりがある。
黒い梁や年月を経た漆喰が見下ろす空間に、
洒落た家具と異国の情緒。
現代と過ぎ去った時間が混ざり合う。
見事に調和したものだ、と口を開けて見回してしまう。
ああ、あそこにひょうたんが垂れ下がっているんだな。
ここには店の人の遊び心も隠されているらしい。
「鞆の浦 a cafe」と「常夜燈ポスト」の物語り
どこかで見たような顔の店長が、
にこやかに迎えてくれた。
平井堅?
もとい、「鞆の浦の平井堅」、坂谷督史さんだった。
鼻孔から流れ込んでくる香りに、
ぼくの胃袋は、もうすっかり魅了されてしまったようだ。
ぐうぐう鳴る音には逆らえない。
ぼくは海の幸をたっぷり使っているという、
おすすめのパスタを注文した。
この店は築150年の長屋を改装して造ったのだそうだ。
聞けば、かのグッドデザイン賞も受賞しているらしい。
坂谷さんは、この古くてモダンなカフェで、
訪れる人たちに海の味覚を振舞っている。
「デザインから地域を活性化する」
それが、この店のコンセプトだ。
元々ある素材を生かし、モダンをプラスする。
驚きと遊び心に満ちたデザインで、
鞆の浦を元気にするお手伝いをする。
なるほど、確かにぼくも、
まんまと驚かされてしまった。
「鞆の浦 a cafe」と「常夜燈ポスト」の物語り
思いを巡らせていると、
ぼくのテーブルに料理が運ばれてくる。
湯気の立つ魚介のトマトソース。
海の旨みがぎゅっと詰まった、滋味あふれる品だ。
それにしても、なぜ鞆の浦でスパゲッティなのだろう。
ぼくの問いに、坂谷さんが答えてくれた。
「地中海かなあ。
瀬戸内って地中海に似てるでしょう、雰囲気が。
地域がずっと断続して残っている。
そういうとこで暮らしてる人って、
皆溢れんばかりの笑顔なんですよね。」
地中海の明るい空気を瀬戸内に重ね、
あちらの国の食文化を鞆の浦に取り入れた。
町の皆が、訪れた人々が皆、笑顔になるように。
このスパゲッティにはそんな願いが込めてある。
坂谷さんは、地中海に暮らす人々の、
素朴な生き方に憧れているのだそうだ。
地域を愛し、歴史や様々なものを受け継いでいく。
たとえ世代が移っても、残すものと変わるもののバランスを失わない。
自分たちの土地に根付いて、その手で抱えられるだけのものを守っていく。
そんなからりとした生き方を、鞆の浦で、できたなら。
伝統家屋とイタリアン。
町の歴史と、新たな文化を絶妙にブレンドして、
坂谷さんは今日もこの鞆の浦で、皆の笑顔を生み出している。
「鞆の浦 a cafe」と「常夜燈ポスト」の物語り
どうして、坂谷さんはこの場所を選んだのだろう。
飲食店を開くのなら、もっと人の多いところでも
よかったはずだけれど―。
「うちのオーナーがですね、こんな良い場所を
放っておくのは勿体ないって言ったんですよ。
鞆の人たちのありのままっていうのも良いんです。
でも、これからは僕らがビジネスっていう形で
お役に立てたら…、それを、みんなでやろうってね」
きっとオーナーには、この場所が宝物みたいに見えたんだろう。
海の煌めきと、素朴で飾り気のない町と人。
“そのまま”を愛する人たちは、とても素敵だ。
だからきっと、誰かに伝えたくなって、
いてもたってもいられなくなって―
ぼくは、オーナーの心情を想像して、
なんだかあたたかい気持ちになる。
「店の名前ね、a café って、ア、カフェって読むんですよ。
theだと仰々しいですから」
a café 、鞆の浦にある、『或る』カフェ。
素朴なこの土地に溶け込むように。
ぼくの疑問はまた一つ解けたようだ。
誰もが素の自分に戻って、
ありのままの姿で歩けるように
海を見たり食事をしたり、
ただゆっくりと過してもらえたら。
このa caféにもまた、
鞆の浦の心が溢れている。
いつでもどうぞ。また来てください。
そう言ってくれている気がする。
「鞆の浦 a cafe」と「常夜燈ポスト」の物語り
坂谷さんは、『幸せ便り』なるものの
看板をしているそうだ。
葉書を差し出され、
ぼくはしげしげとそいつを見つめた。
なんでも、大切な人へのメッセージを書いて、
この店の外にある丸ポストに投函すると、
幸せになれるかもしれない……
そういうわけで『幸せ便り』。
それじゃあ、これに携わる坂谷さんは、幸せの紡ぎ手か。
外の丸ポストを、『常夜燈ポスト』と名付けたらしい。
皆を見守る灯りの元に、静かに佇む赤いポスト。
うん、何だかとても良い雰囲気だ。丸いフォルムが懐かしげ。
この幸せ便りで、恋を成就させた若者もいるんだそうだ。
きっと鞆の浦の海の解放感と、このお店の
優しい雰囲気に背中を押されて、
彼は勇気を出して真っ直ぐな想いを綴ったんだろう。
彼の想いを、幸せとともに彼女へと届けたあの赤いポスト。
常夜燈ポストは、今日も静かに佇んでいる。
ぼくも彼らにあやかって、
一筆書いてみるとしようか。
「鞆の浦 a cafe」と「常夜燈ポスト」の物語り
美味しいものでお腹がいっぱいになると、
気持ちもほっこり満たされる。
a café ではテイクアウトもできるそうだ。
ぼくはコーヒーを淹れてもらって、
外にある雁木に腰掛け
ほっと一息ついている。
遥か昔にも、こうしてぼくみたいに海を眺め、
常夜燈を仰ぎながら、のんびりと過ごした人がいたのだろうか。
ふと昔に目を向けてみたくなる。
変えるべきもの、変えてはいけないもの。
あのa café ではそれらが見事に混ざりあっていた。
古いものを大切にしながら、
新しいものを歓迎してくれるカフェの姿。
それはまた、昔ながらの鞆の浦を守りながら
新しいことに挑戦し、ぼくらを大らかに迎えてくれる、
坂谷さんやこの町の人々のようでもある。
海や町の景色を楽しんでいたら、
いつのまにか空になっていたカップ。
ぼくはa caféの看板と
常夜燈ポストをしっかりと目に焼き付け、
来た時よりも随分と軽い足取りで石畳を鳴らした。
幸せの紡ぎ手に、きっとまた会いに来よう。
「鞆の浦 a cafe」と「常夜燈ポスト」の物語り
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