感謝の家 豆冨工房の物語り
潮の香りが匂い立つ鞆の浦を、ぼくは歩いていた。
日の光りを浴びる海は静かにきらめいていて、
思わず目を細めてしまう。
鞆の浦の東の海岸線沿い。
仙酔島に行こうかしらと考えていたぼくは、
興味深い建物を発見する。
感謝の家、豆冨工房。
腐る、という字ではなくて、
冨める、という字を使うあたり
主人の大豆への愛を感じる。
縦に並べられた「大豆研究所」という看板にも
好奇心をくすぐられる。
なるほど、建物の古めかしい雰囲気には
研究所という言葉がよく似合う。
いいさ、どうせ当てのない旅だもの。
ぼくは心の向くままに、豆冨工房へと足を踏み入れる。
感謝の家 豆冨工房の物語り
中に入ると、まるで豆冨の王国とでも形容すべき
光景が目に飛び込んできた。
豆冨はもちろん、にがりや豆乳、豆乳チップ、
おからサラダ、さらには醤油など、
豆冨、大豆に関連する商品がところ狭しと置いてある。
ぼくが店内の様子に圧倒されていると、
奥から人のよさそうなおじさんが現れる。
ここの店主、丸山隆宏さんだ。
こんなにも種類豊富でびっくりしてしまった、と
素直な感想を伝えると、
丸山さんは嬉しそうに頷きながら
ぼくに試食を勧めてくれた。
豆冨もおからも、どれも絶品。
舌がとろけるとはまさにこのことで、
濃厚な味わいにほっぺたが落ちそう。
おからも普通よりゆるく絞っているらしく、
ぼくが知っているものよりもずしりと重たい。
豆乳の美味しさがぎっしりと詰まっているわけだ。
うん、ぼくはもうここの豆冨の
とりこになってしまったかもしれない。
感謝の家 豆冨工房の物語り
豆冨そのままの味に陶酔しているぼくに、
丸山さんは色々な楽しみ方を教えてくれた。
「たとえば、これはどうですか」
心なしか得意げに、ぼくに豆冨を味見させる丸山さん。
オーソドックスにポン酢をかけても美味しいし、
自然塩をかければ豆冨本来のうまみが増したように感じられる。
メープルシロップを差し出されたときはさすがに驚いたけど、
豆冨がスイーツに変身してしまうんだから敵わない。
まさに豆冨のフルコースと言える。
もちろん、土台となる豆冨が絶品だからこそ
何をかけても美味しいのだろう。
聞くと、九州産の大豆、フクユタカのみで
豆冨を作っているらしい。
しかも、通常よりも大豆の量を三倍使っているので
大豆の味がしっかりと感じられる。
大豆からこだわるその姿勢。
「大豆研究所」の看板に偽りなし、ということだ。
感謝の家 豆冨工房の物語り
店内を見渡すと、豆冨の他に
塩に関連する商品もたくさん置かれている。
聞けば、丸山さんは塩作りにも情熱を注いでいるとのこと。
「塩は食の基本中の基本。うちで扱っている塩は
すべて海から作ったものです。
……人と海には深い繋がりがあるんですよ。
はるか昔、人の祖先は魚として海で暮らしていたっていうでしょ?
そのときのなごりっていうのが今でも体の中にあるんですよ」
ぼくは手で自分の体のあちこちを触ってみる。
人間に魚の頃のなごりがあるだなんて考えたこともなかった。
「一つは血液。これと海の塩の成分ていうのが、
ヘモグロビンなんかを除いたら同じになる。
もう一つは涙。魚は瞼ないから目を
あけっぱなしにしています。
それで、海から陸にあがると、
目は乾いて目が見えなくなってしまいます。
それを防ぐために瞬きで、涙をうまく調整しているのですよ。
そして、この涙の成分も海の成分に近い。
ね、面白いでしょう?」
なるほど。血液と瞬きときたか。
普段は意識しないような部分にも、
ぼくたちの祖先の道筋が確かに刻まれているのだ。
その長い年月の途方もなさに、
ぼくはしばし想いを馳せる。
感謝の家 豆冨工房の物語り
丸山さんの話はまだまだ止まらない。
ぼくも身を乗り出して耳を傾ける。
「人間がね、海から生まれたことを
一字で表す漢字があるんです。何か分かります?
これね、『潮』という字なんです。
『潮』という字をバラバラにしてみると、ほら。
“海”から“十月”と“十日”で生まれた、
と解釈できるでしょう。
昔の人はそのことをちゃんと分かっていたんですね」
ちなみに、母親の羊水というのも、
実は海の成分とほとんど一緒のようだ。
たとえるならば、海のゆりかご。
そのように、海と深い繋がりを持つぼくたちにとって
一番良い塩とは海から採れる塩なのだ。
また、ここでは満月の大潮で満潮になったときと
新月の大潮で満潮になったときの塩水しか使わないらしい。
丸山さんいわく、それが一番いい塩を作るための
材料になるそうだ。
いやはや。
ぼくはすっかり丸山さんの話に感服してしまった。
感謝の家 豆冨工房の物語り
これだけ美味しい豆冨、
実は豆冨工房以外でも食べることができるらしい。
ぼくが行こうとしていた仙酔島にあるホテルでも
塩や豆冨は売られているらしいし、
ここの隣りにあるたいやき屋さんでも
豆冨工房で作ったおからのたいやきを食すことができる。
たくさんの人が手にとりやすいように、
という丸山さんの思いがあってのことだ。
豆冨の輪はどんどん広がっていく。
でも、ぼくは今日、この工房で
豆冨、そして何より丸山さんに巡り会えて
よかったと思っている。
だって、丸山さんの話を聞くと聞かないじゃ
豆冨や塩に対する見方が全然違うんだもの。
大豆研究所、丸山“博士”の薀蓄(うんちく)、
聞かなきゃ損、損。
感謝の家 豆冨工房の物語り
鞆の浦は、海や自然との距離が近い。
だから、この町のリズムは無意識のうちに、
自然のサイクルに組み込まれてしまっているのだろう。
それは丸山さんも同じで、
潮の満ち引きに従いながら塩を作り、
大豆の持つ自然の味を生かした豆冨を作る。
そうであるからこそ、ぼくたちは普段味わえない、
原始的とも言える、体の芯に響くような美味しさを
十二分に堪能することができる。
豆冨の“冨”は富めるの“冨”。
食べた人に元気になってもらいたいという意味が
込められている。
それを聞いたとき、ぼくの胸に、
太陽の光がそっと差し込んでくるようだった。
心まで豊にしてくれる豆冨が、
この工房には確かにある。
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