「ガイド」宮本和香さんの物語り
仙酔島への渡船場の前で、
ぼくはガイドの宮本さんと待ち合わせた。
鞆一番のベテランガイドさん。
ぼくが「よろしくお願いします」と言うと、
宮本さんは気持ちのいい笑顔とあいさつを返してくれた。
初めは、じっくり鞆を案内してもらうつもりだった。
でも、宮本さんに会って、気が変わった。
鞆の語り部「その人」に、より興味が湧いてきたのだ。
ぼくたちはコーヒーを飲みながら、
ゆっくり話をすることにした。
鞆港のすぐ近く、深津屋さんに入る。
宮本さんの「物語り」を聞くのには、
ぴったりなところだと思った。
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「ようこちゃん、こんにちは」
と、宮本さんは明るくあいさつした。
「ようこちゃん」は、澤村船具店・ 澤村のおかあさんの娘さんだ。
深津屋さんでコーヒーを淹れている。
ぼくも「こんにちは」とあいさつする。
宮本さんは、深津屋さんの
カウンター席の隅を指差しながら、
「そこ、宮崎さんがお座りになったところ、どうぞ」
と言って、ぼくを座らせてくれる。
宮崎さんとは、アニメ『崖の上のポニョ』の
構想を練るために鞆の浦を訪れていた宮崎駿監督のことだ。
「宮崎さんがよく飲んでたコーヒー飲む?炭焼き」
と宮本さんは言い、ぼくは一も二もなく、それを注文する。 宮本さんは
「宮崎さんにようあやかってな」
と言って笑い、ぼくも笑う。
ぼくはまず、宮本さんがガイドを
始めたきっかけについて尋ねてみた。
すると、宮本さんは、
「鞆の浦の『鞆』って意味わかる?」
と、あべこべにぼくに質問を投げかけてきた。
ぼくは、わからないと答えた。
「『鞆』いうのはね、弓を打つ時に腕に弦が当たるでしょ、
それを守るための防具のこと。
十四代・仲哀天皇の時代にね、
神功皇后が百済や新羅を攻めに行ったのね。
そして、 潮待ちのためこの土地に寄るん。
で、神功皇后が甲冑姿をして、ここの神社にお参りしたのね。
そのときに、腕にはめる鞆を外して奉納したと。
それで、鞆の浦いうようになりました」
ぼくは、宮本さんの流暢な語り口に
どんどん引き込まれていく。
「『鞆』いう字は国字です。中国から入ってきた字でなくて、
日本で出来た字。だから、一般的じゃなくて、読んでいただけない」
「うん。ぼくも初めて見たときは、読めなかった」
「そうじゃろ。わたしも嫁に来るまで読めなんだ」
あはは、と宮本さんは大きく笑った。
「わたし、隣の岡山県からお嫁に来たの。すると何もわからない。
『鞆』の字も読めんかったし、道もわからん」
ぼくは、うなずく。
「うち、印鑑屋(宮本耕玉堂)でね、
観光で来られた皆さんが地図を持って、
今自分はどこにいるか、
ここに行きたいと訊かれるわけよ。
その気持ちよくわかる。
それなら教えてあげようってね、
その思いだけ。それがガイド始めた、きっかけ」
炭焼きコーヒーが出てきた。
すごく香ばしくて、おいしいコーヒーだった。
温かいコーヒーを喉に通して、ぼくたちの話は一層はずむ。
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「で、案内するなら、ちょっとしゃべれたほうがええじゃろ。
で、鞆にゆかりのあるとこには片っ端らから行って、
そこの学芸員の方にお話聞いてくるわけ。
そうしとくとな、お客さんが山口から来た言うたら、
毛利の話ができるし、大阪から来た言うたら、
秀吉の話ができる。知識の幅、な」
「地方に勉強しに行くの?」
と、ぼくは聞く。
「そう。年に二回、ガイド仲間で研修旅行にね。
あとは、年表書いてみんなで覚えたり、
古文書勉強したり。それこそ、
有名な先生の講演があれば、聴きに出向くわけよ」
ほんとうに本格的に勉強に励んでいるんだ。
ぼくが感心していると、宮本さんは、
「そういうふうにして わたしたちなりに勉強しております」
と、すこしお道化て、付け加えた。
「ガイドさんって、今、何人いらっしゃるの?」
「わたしたち奥さまガイドは、最初の立ち上げが
5人じゃった。二十六年前(一九八六年)な。
で、女だけでガイドしてたら、退職した
男の人たちも手伝いたい言うことで、
今は十五、六人はおるのかなあ」
奥さまガイド、シルバーガイド、
観光ガイドというのがあって、今では情報センターで
一括してそれらの予約を受け付けているということだ。
ガイドさんのシステム自体がなかったところから、
よくここまで整備したものだ。
「でも、昔からお付き合いのあるバス会社さんや
個人さんなんかからは、直接ご予約頂いたりね。
それをうまいことメンバーで割り振って、
やらせてもらってます」
大したものだ、ほんとうに。
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「人相手のお仕事だから、もちろん苦労もあるよね?」
「それはね」
と、宮本さんは言い、苦笑いしながら続ける。
「お酒飲んだ人の案内は大変じゃね。言うこと聞かん」
「ぼくもお酒好きだから、耳が痛いな」
「あはは。ほんにね。迷子になって警察まで
巻き込んで探したり。全然違う船に乗って帰っとってね。
みんなで探した。今、携帯があるけどね、
ないころは大変よ。酔っ払いはもうねえ、
言うこと聞かん(笑)」
修学旅行で百人以上の生徒さんを 案内したこともあるという。
ガイド中に怪我した人も出れば、
急病で救急車を呼んだこともあった。
宮本さんは、懐かしそうに笑って言う。
「いろいろ、あるわ」
「じゃあ、ガイドやってて、よかったって思えるときは?」
「それはねえ、お礼のお手紙もらったときとか、
同じ方が六回も来てくれたときなんかかなあ。
あと、友だち連れてきてくれたりとか。
それはもう、感謝してます」
宮本さんたちガイドさんとの交流で、
鞆を好きになる観光客はきっといるだろうと思った。
現に、ぼくだって宮本さんと話をして、
鞆がまたひとつ好きになれたのだから。
「鞆は古い町いうことでね、宝物があるんです。
流行とかヒット商品がなくても来ていただけるように、
その懐かしい宝物を、うまいこと皆さんに
伝えていかにゃいけんわけよ。
それが難しいところなんだけどね」
宮本さんの話を聞いた人には、その宝物は、
きっと届いていると思う。
少なくとも、ぼくは、しっかりその宝物を
受け取っているのだから。
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宮本さんが鞆の宝物を 伝え始めてから、
鞆の町はどう変わっていったのだろう。
「うちらがガイド始めてから、
鞆にお店が三十軒ほど出来た。
澤村さんがここ(深津屋さん)を
改装して喫茶店にしたり、ね。
ここはもう二十年くらい経つかねえ、
ようこちゃん?」
「十九年かな」
と、ようこちゃんは答える。
「うん、十九年。
もともとは普通の民家で、
梁とかはそのまま残してね、
ここ生活の場でしたから」
それにしても、ガイドを始めて三十もの
お店が出来るなんて、いやはや、すごい。
「いや、わたしたちだけの力じゃのうてね、
もちろん。地元の主婦が五人集まって、
何もないとこからガイド始めたのを、 NHKが珍しい言うて、
全国放送で三十分の番組を作ってくれたんよ」
宮本さんはそう言ってから
コーヒーをひと啜りして、また続ける。
「そしたら、それ見て、大勢のお客さんが
鞆にいらっしゃってくれた。そうすると、
喫茶店がいる、食事店がいる、
みやげ物屋がいる言うことで、
バババババっとお店ができたわけよ」
「メディアの力っていうのは、
すごいものだねえ」
と、ぼくは感心して言う。
「うん。ほんと、おかげさまです。
NHKの放送のあとは話題が広まってね、
他の放送局、雑誌社、新聞社と、
そりゃまあすごかった。
わたしたち女五人でガイドしよったときに、
年間一万人くらい案内させてもらってたから」
一万人……まったく、すごい。
「NHKというと龍馬伝を思い出すけど、
その影響はやっぱり大変なものだったのかな?」
ぼくがそう聞くと、宮本さんは、うんうんとうなずく。
「一年で百五十万人のお客さんがいらっしゃったよ。
武田鉄也さんも福山に講演に来られた。
龍馬伝のプロデューサーの
鈴木圭さんも一緒にね。楽しかったよ。
その前座を二十分、うちがさせてもろうた。
緊張したよ。勉強してった」
あははっと、宮本さんは大きく笑った。
この快活さが、メディアも人も町も動かしたんだね。
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ぼくは深津屋さんの内装を、
改めてぐるりと眺める。
明治のころに使われていた
今ではアンティークの自転車や、 裸電球、
それに蓄音機。
その中で、特に気になるものがあった。
「さっき、深津屋さんの改装の話出たけれど、
梁に付いてるこの白い杭みたいなものは、
昔から付いてたの?これ、電気の配線かなにか?」
「そうそう。鞆では昔からそう。
『碍子(がいし)引き』言うのね。
その白い筒みたいのはね、電気通さんのよ。
陶器じゃから。それに電線巻いて、
放電を防ぎながら効率よく家に電気を
流してるんな。鞆の古い家はみんなそうよ。
この家は百五十歳じゃからね」
「百五十……
こんなにしっかりともつものなのかな」
「人が住みよるからもつんよ」
うん、なるほど。
町家の話が出たから、
ぼくは宮本さんに次の質問を投げかける。
「今、使われていない町家って、やっぱりあるの?」
「あるよ。人の手が離れると途端にガタが出るからね。
もったいない。持ち主もなかなか帰って来んね」
道も狭く、たしかに都会と比べれば、
生活上の不便はあるのだろう。
でも、と宮本さんは言う。
「鞆はほんとに住みやすいところ。
人情がある、食べ物はおいしい、気候はええ、
景色はええ。町を歩けば互いにあいさつし合ってね、
それがいいのよ。
鞆はむかしの人間関係が残ってるところです」
ほんとうに、そう思う。
ぼくのような旅人でも
三日も鞆の町を歩いていれば、
町の人たちは優しく声をかけてくれるのだから。
「仕事や駐車場があれば、若い人たちも
もっと来てくれる思うんじゃけどね」
ぼくはその言葉を聞いて、宮本さんの
鞆を思う気持ちの深さを、改めて思い知った。
未来につながる、宮本さんの想い。
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「じゃあ、そろそろ帰りがてら、
町でもぶらりとしようかね」
宮本さんは、そう言って席を立った。
そして、
「ようこちゃん、ごめんね、
やかましかったろ?わたし、話してると、
だんだん声が大きくなるんよ」
と言って、あははと笑った。
ぼくも「ごちそうさま」とお礼を言い、
宮本さんの後に続いて外に出る。
深津屋さんを出てすぐの石畳を踏みながら、
宮本さんは言う。
「これな、平成元年(一九八九年)の
『海と島の博覧会』のときに、改装されたものです。
博覧会以前は普通のアスファルトじゃったんよ。
三十キロなんて書いてあって、
写真撮ったら不細工じゃなあ言うて。
それで全部きれいになった」
へええ、とぼくは感心する。
すぐ近くの狭い路地に入る。
太田家の酒蔵の白壁が青空に映える。
「こういう路地はみなさんあまり入って来ない。
だから、わたし、こういうとこを紹介するんです」
そして、宮本さんは壁を見上げて言う。
「ここね、白壁がぐっと反っとるでしょう。
ネズミ返し。ネズミが上るとひっくり返る。
去年、ほんとうにここでネズミ落ちとったん。
そしたらね、お客さんがね、ガイドさん置いとるんかってね」
宮本さんとぼくは、一緒にあははと笑う。
「でね、上をご覧になって。雨どいのところ。
タコが引っ掛かっとるじゃろ。
カラスが魚屋の干しとるタコを盗って、
それをトンビが狙ったんじゃなあ。
で、結局、落っことしちゃったんよ」
「へえ、カラスとトンビが空で獲物を奪い合うの?」
「いっつもやっとるよ。カラスとトンビの空中戦、な」
「それは壮絶だね」
と、ぼくは笑う。
「ガイドしてたら魚が何匹も落ちてきたよ。
その話をしているときにね、ちょうど落ちてきたこともあった。
あはは」
面白いこともあるものだ。
ほんとうに、あはは、だね。
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宮本さんは、鞆の町を歩いている最中、
目に付くものを次から次へと解説してくれた。
保命酒の話、雁木の話、福山藩の話、
藩校・誠之館の話……。
町を歩きながら、話が尽きない。
その道々で、宮本さんは、
すれ違うほとんどの人たちとあいさつを交わす。
つくづく、鞆の「顔」なんだ、と思う。
こんなガイドさんがいてくれて、
ぼくたち旅人も、鞆の町も、ほんとうに果報だね。
「宮本さんみたいに、知識もあって、
話も上手なガイドさんになるまでには、
相当な努力が必要なんだろうね。
新人さんも勉強、大変なんじゃない?」
宮本さんは、また、あははと気持ちよく笑う。
「いやいや、そんなことはないよ。知識なんて、
さいしょはわたしたち先輩の後について、
わたしらが言っていることだけ覚えるとこから
始めてくれればええんじゃから。それにね、
あんまり難しいことお客さんに言ったらいけんのよ。
勉強じゃないんだから。楽しみに来られてるんじゃからね」
うん、たしかに。
宮本さんは「例えばね」と言って、こう続ける。
「幕末、福山藩主の阿部正弘が
幕府のお偉いさんじゃったんよ。ペリーと会ったときに、
保命酒とビールで乾杯したんよ。それ以後、
日本で初めてビールを作ったのは誰か知っとるか、言うてね。
知らん言うたら、海援隊の会計係しとった
岩崎弥太郎さんの弟が作ったんよ、
それが三菱ビールよってね。それが今のキリンビール。
で、ビール飲むときにちょっとラベル見てみ、と。
キリンビールのラベル、その頭と喉は龍なのよ、
脚と手は馬なのよ。で、龍馬なんよってね」
ぼくはまた、へええと、素直に感心する。
宮本さんには感心させられてばっかりだ。
「こんな話してあげれば、ビール飲むとき、
鞆のガイドが言うとったと思い出すじゃろう。
難しい話はいらんのよ」
そう言って、宮本さんはまた、あははと明るく笑う。
うん。忘れられないね。ぜったい、忘れない。
ときに、その話、ぼくも使わせてもらっていいかな。
あはは。
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