「OUR HOUSE」大浜史治さんの物語り
「ともてつバスセンター」のほど近く。
弁天島と向き合う海岸通りの一角に、
「OUR HOUSE」という名前の喫茶店がある。
石壁のお洒落な外観と自家焙煎の文字、
雰囲気のある黒板のメニュー表示に
魅かれて入ってみると、
ただよう珈琲の香りと、
静かに流れるブルースが、
心にすーっと沁み入ってくる。
「いらっしゃい。お好きな席へ」
にこやかに迎えてくれたのは、
口髭を生やした優しそうなマスター。
今しがたまでテーブル席の老婦人達と、
楽しそうに笑い合っていたこの丸顔のマスターが、
物語りの主人公、大浜史治さんだ。
「OUR HOUSE」大浜史治さんの物語り
常連客と親しげに話す様子から、
鞆の浦出身のように見える大浜さん。
けれども実際は大阪生まれの大阪育ち。
若い頃は大阪で映像関係の職に就き、
昼夜を選ばぬ都会のリズムの中、
人波にまぎれて忙しく働いていた。
転機は平成七年に起きた阪神大震災。
この大災害と、その直後の奥さんの出産が、
大浜さんの生活と価値観を一変させた。
これがきっかけで大浜さん一家は、
奥さんの故郷である鞆の浦に移住。
紆余曲折を経た後、
一年前にこの喫茶店を開いたのだ。
「OUR HOUSE」大浜史治さんの物語り
実は大震災が起こるずっと前の若かりし頃、
大浜さんは一度鞆の浦に来ている。
付き合い始めたばかりの彼女。
今の奥さんに連れられて、
福山からバスに揺られた。
広銀の横を抜け、
目の前に弁天島を抱いた穏やかな
海が開けた時の感動を、
大浜さんは今でも鮮明に覚えている。
バスを降りて目にした、
街並、漁船、商売する人々など、
昔ながらの風景と営みにも、
なぜかたまらない懐かしさを覚えた。
そして震災後、
子育てや自分の人生について改めて考えた時、
鞆の海と、
古いものや生活を守り続ける人々の記憶は、
強いインパクトをもって、
大浜さんの脳裏に浮かび上がってきたのだった。
「OUR HOUSE」大浜史治さんの物語り
大変なことも、時期もあったけれど、
結論としては鞆の浦に引っ越して来て良かった、
ここに骨を埋められると、
大浜さんは思っている。
一番の理由は人情、人のつながりだ。
昔ながらのコミュニティーが残っていて、
ごく自然に助け合える。
これが大阪での暮らしとの一番の差異であり、
鞆にいて、もっとも落ちつける点だ。
子育てをしていても、
大人達の目が届いて、
地域全体で子育てができる
ことの利点を強く感じる。
この「つながり」の価値を強く感じたからこそ、
世間話ができ、人と人とをつなぐ
プラットフォームの役割を担う、
喫茶店、という商売を選んだ面もある。
「OUR HOUSE」大浜史治さんの物語り
店内にポートレートを掲げる程、
大浜さんはジョン・レノンを尊敬している。
どんな所を尊敬しているのかと問うと、
面白い答えが返って来た。
「平和を説いたりするジョンも好きですけど、
男のあり方として何より格好いいなと思うのは、
オノ・ヨーコさんという一人の女性に、
恥じらいなしに全的な愛情を注いだという点ですね。
僕なんか妻にはテレ臭くてできませんけど、
でもやっぱり愛するものを大切にして生きたい。
いろいろなものに対してそうあろうとは思いますね」
そう言われて改めて店内を眺めると、
なるほどここには、
大浜さんの大切なものへの愛(いつく)しみが溢れている。
珈琲豆、音楽、珈琲茶碗、
それから昭和初期のものだという黒光りする棚。
それら一つ一つが愛情を込めて手入れされている。
鞆の浦にこの店を開いたということも又、
この地に対する愛の表明なのだろう。
「OUR HOUSE」大浜史治さんの物語り
愛する鞆の浦の今後について、
大浜さんは一家言を持っている。
若い、外から来る人が活躍してこそ、
今残っている物や絆の継承もできる、
というものだ。
外部から来た人、
あるいは一度離れてまた戻って来た人は、
鞆の浦を客観的に、そして俯瞰的に見ることができる。
すると、中にずっといる人が気付かない
点に気付くことがある。
そういう人達が、鞆を思い続けてくれること、
鞆のために活動し続けてくれることが大切だ。
自分も又、少し歳は取ったが、
良い例になれるように頑張らなくちゃいけない。
こんなことを思いながら大浜さんは今日も、
海辺の小さな喫茶店「OUR HOUSE」で珈琲を淹れ、
「つながり」創りにいそしんでいる。
「OUR HOUSE」大浜史治さんの物語り
他の物語りを読む