キッチンナッティ 田中幸治さんの物語り
「小室浜で、窯焼きピザが食べられるんよ!行ってみ!」
昼間、鞆の町を散策しているときに出会ったおばちゃんの
言葉を思い出しながら、小室浜海岸へ車を走らせた。
町の南西部へ向かい、沼隈方面へと続く鞆バイパスに入る。
練り物屋さんの「阿藻珍味」を左手に見ながらどんどん進む。
だんだん民家が少なくなってきた。
こんなところにお店があるのだろうか?
しばらく走ったところで、「小室浜海岸」の看板が見えた。
下には「Kitchen Natty」の白い文字。
これがきっと、例のピザ屋さんだ。
看板の矢印が指す方向へ車を進める。
両脇を緑の木々が生い茂る細い道を行くと、
やがて、浜辺が見えてきた。
まさに隠れ家ビーチ!
こんなところにお店があるなんて――。
海水浴場としてはオフシーズンなのにもかかわらず
「キッチンナッティ」は繁盛していた。
私は、しばらく浜辺で待つことになった。
キッチンナッティ 田中幸治さんの物語り
持ち帰り用のピザを買いに来ていたお客さんたちが去り、
店内は落ち着いたようだ。
私は、浜辺が見える席に座ってビールを注文した。
心地良い潮風に、南国風の音楽。そして冷えたビール。
なんだか南の島にでもいるような気分だ。
やがて店長さんが厨房から出てきたので、
気になる店の成り立ちについて聞いてみた。
穏やかな笑顔が印象的な、店長の田中幸治さんは、
キッチンナッティが小室浜海岸に辿り着くまでの物語を聞かせてくれた。
キッチンナッティはもともと、福山駅の北にある神辺町にあったそうだ。
神辺は田中さんが生まれ育った町。
国道沿いの大きな倉庫を改装してカフェレストランにし、
奥さんと一緒に営業していた。
田中さんは大の音楽好きで、奥さんはヨガのインストラクターでもある。
そこで、ライブハウスとヨガスタジオも併設し、人気を集めていたのだが、
4年半たった頃、諸事情により急に移転することになったのだ。
「駅前の物件とか色々見たけど、せっかくだから面白い店を
作りたいと思ってここにしたんです」と田中さん。
こんなところには客が来ないのではないかと言われたけれど、
周りの言葉より、自分たちの直感のほうを信じた。
そして2015年1月、小室浜海岸で営業を開始したのだ。
キッチンナッティ 田中幸治さんの物語り
またお客さんが何人かやってきた。
ピザをテイクアウトするようだ。
私もピザを食べたくなったので、おすすめの1枚を
焼いてもらうことにした。
待っている間、あらためて外の景色を堪能する。
夕闇に包まれていく空と海が、とても綺麗だ。
しばらくして、田中さんが焼きたてピザを持ってきてくれた。
「おすすめを、ハーフ&ハーフにしました」
早速、いただく。
美味しい!
焦げ目の部分はなんとも香ばしくて、
もちもちした生地と濃厚なチーズの味がたまらない。
田中さんに感想を告げると、ピザの生地はだいぶ試行錯誤
したのだと教えてくれた。
「リンゴを発酵させて、自家製天然酵母を使ってるんですよ。
生地が完成するまでに十日以上はかかってます」
こだわりのある料理人のようだが、
聞けば田中さんは、もともとはさほど料理に興味はなかったとのこと。
自転車でオーストラリア縦断旅行したときに意識が変わったという。
25歳の時のことだ。
毎日、キャンプをして食事を作るという経験をしたことで、
料理の面白さに目覚めた。
帰国後すぐに料理の世界に入り、31歳の時に大好きな音楽と
美味しい食事を楽しめる店を開いたのだそうだ。
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レジ横のカウンターには、
店で行われるライブイベントのチラシがたくさん置いてあった。
店の移転先を小室浜に決めたのは、ライブをする場所として
魅力的だからという理由もあったそうだ。
「僕が一番好きなのは、音楽なんです」
田中さんは、言葉を選びながら、ゆっくりと話し続ける。
「ライブをね、見にきてもらいたいんです。
ライブで生の音楽を聴いてもらいたい。その時にしかない
空気感を味わってほしいっていうか。
前の店でもライブをしてたんだけど、なかなか足を運んで
もらえないんですよね。
ここには、広い空があって、綺麗な海がある。
場所として魅力があるのだから、きっとたくさんの人が
集う場になるんじゃないかと思ってるんです」
確かに、私もこの場所で行われるライブになら、来てみたい。
本当に開放的な場所なのだ。
「ライブハウスだと、音楽に興味がある人しか来ないでしょ。
この場所で、料理を食べてもらう空間がワンクッションとして
あれば、色々な人が足を運びやすいんじゃないかと」
よりたくさんの人が、音楽の魅力に出会う場を作りたい――。
そんな想いが田中さんの中にあるのだ。
そのために、魅力ある場所に店を開き、
美味しい料理を用意し、居心地の良い空間を作っている。
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キッチンナッティが移転する前、
小室浜は、海水浴シーズン以外は閉鎖されていて、
浜辺に入ることができなかったそうだ。
今は田中さんが年間を通して店を営業しているため
公園に遊びに来るような感覚で、
小室浜を訪れる人が増えているという。
そんな人がもっと増えてほしいと田中さんは言う。
「ここの魅力はね、何もないところ。
なんにもないのがいいんです。
たまに夕暮れ時、空一面がピンク色に染まるんですよ。
奇跡みたいに、めちゃくちゃ綺麗な時がある。そういう時に
限って、僕ひとりしかいなかったりするんですけど(笑)」
そんなすてきな景色を日々見られるなんて、
なんだかうらやましい。
一方、プライベートでも田中さんの生活は変化している。
店の移転にあたり、奥さんと一緒に鞆の平地区へ引っ越しているのだ。
いくら、自然豊かな美しい場所とはいえ、市街地から離れた
小さな港町の住民になることについて、
不安もあったのではないだろうか?
キッチンナッティ 田中幸治さんの物語り
田中さんに、引っ越し当時の心境について尋ねてみた。
「正直、町の人に受け入れられるか、気にはなりました。
でも、先入観で色々考えずに、新参者として
『よろしくお願いします』って入っていけばいいと思って」
素直な気持ちで、鞆の人たちに向き合った田中さんを、
町の人たちは温かく迎え入れてくれたようだ。
それがよくわかるエピソードを田中さんは教えてくれた。
店の移転から7カ月、ちょうどお盆の時期に、お子さんが生まれたそうだ。
地域の盆踊り祭の会場で、町の人に子どもの誕生を伝えると、
参加者全員に聞こえるように、「生まれました!」と
発表してくれたのだ。
「たくさんの方に祝ってもらいました」
と顔をほころばせる田中さん。
「僕みたいな若い人がもっと鞆に住むようになったら面白いなって思います。
引っ越すまでは、ずっと鞆のことを客観的に見ていて、
鞆はもっと面白くなるんじゃないかなぁと感じてて――。
色々な人がそれぞれのタイミングで住み始めて、
楽しみながら暮らしていけたらいいなと思いますね」
鞆はもっと面白くなる――。
田中さんのその言葉を聞いて、ハッとした。
最近、よく聞く言葉だからだ。
今、色々な人が鞆に引き寄せられてきている。
移住する人もいれば、毎年必ず訪れる人もいる。
それぞれの人が、鞆の昔ながらの空気になじみながら、
新しい世界を生み出しているように思う。
そしてここ、小室浜でも、田中さんの手で
新たな世界がゆるやかに、そして着実に作られつつあるのだ。
なんだか急にワクワクしてきて、
思わず残りのビールを一気に飲み干してしまった。
キッチンナッティ 田中幸治さんの物語り
鞆の町の中心部から少し離れた小室浜海岸にある「キッチンナッティ」。焼きたてのピザのほか、生の音楽も楽しめるカフェレストランだ。鞆の浦に住み、ここで店を開くことを決意した店長の田中幸治さんが、地域の魅力を語ってくれた。
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