鞆の浦の歴史

広島の福山・鞆の浦は、景勝が見事であるというだけでなく、歴史の町であるということも、観光に訪れる人が多い理由です。海外から足を運ぶ人もいるほど、鞆の浦は日本が誇る歴史の町といってもいいでしょう。福山駅や尾道からも近く、観光や散策には便利。海を眺めながら地図を案内役に、歴史ある街並みや旧跡を中心に鞆の浦を歩いてみませんか。

潮待ちの港の歴史

現在の広島県福山市の鞆町という鞆の地域(仙酔島、弁天島、つつじ島、皇后島、玉津島、津軽島を含むエリア)は、古代より潮の流れに左右された海運にとって要衝の地とされ、「潮待ちの港」と呼ばれ繁栄していました。人々が交流する場所であっただけに、布教の拠点ともなり、古刹が多く残っています。800年代になると最澄によって静観寺(1300年代に焼失)が、空海により医王寺が、さらに900年代に福禅寺が建立されています。13世紀には今の安国寺となる金宝寺が建てられています。

戦いの歴史、政の歴史

交流拠点だった鞆の浦は、歴史の中では戦いの場でした。南北朝時代には、鞆合戦と呼ばれる戦が行われ、その間に静観寺五重塔は焼失してしまいました。 戦国時代は、安芸で勢力を持っていた毛利氏が興隆し、鞆中心部に「鞆要害」を築きました。これが後の鞆城になります。鞆は備後でも有数の拠点となっていました。 1573年、室町幕府15代将軍足利義昭は織田信長によって京を追放されます。足利義昭は、毛利氏や、現在の広島県福山市沼隈半島一帯を治めていた渡辺氏などの支援を受け、1576年にほかの幕府の武家とともに拠点を鞆に移しました。この勢力は、鞆幕府とも呼ばれたそうです。 江戸時代になると備後国を領有した福島正則が、鞆要害を鞆城へと拡大させようとしますが、徳川家康の意向に沿わず、工事は中止。その後、福島氏に代わって徳川家康の従弟水野勝成が備後福山藩の領主となりました。 1863年、尊皇攘夷派の三条実美ら7人の公卿が公武合体派によって京都を追われて長州に逃れる際、また翌1864年に長州から船で京都へ向かう際に、鞆港に立ち寄りました。その宿泊に使われたのが、福山藩の御用名酒屋を務めた保命酒の蔵元である中村家でした。明治時代に所有者が変わり、現在は太田家となっています。七卿落の遺跡であることも含め、1991年に国の重要文化財として指定されました。

いろは丸事件

その数年後となる1867年、海援隊が借り受けていた伊予国大洲藩所有のいろは丸が長崎港から大坂に向かっていたところ、備中国笠岡諸島付近で、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突するという事件が起こります。いろは丸に乗っていた坂本龍馬など海援隊と、明光丸の乗組員は鞆の浦に上陸。坂本龍馬と紀州藩は、鞆の対潮楼などで賠償交渉を開始しました。鞆での交渉はまとまらず、長崎奉行所に場を移し、土佐商会および土佐藩と紀伊藩は継続して争ったそうです。

現代の鞆の浦

1934年に国立公園として、全国で最初に指定されたのが瀬戸内海国立公園です。その中で最初の指定地が鞆の浦と瀬戸内海に浮かぶ仙酔島でした。 時代が進むにつれ、航海技術が進歩し、鞆の浦の海上交通の要所としての意義は薄れていきます。さらに沼隈半島の先端に位置し、開発が進んだ鉄道や国道といった陸上交通から一定の距離があるため、鞆自体の開発は急速には行われませんでした。そのため広島の福山市鞆町には、名所旧跡や遺構そして歴史ある街並みが現在でも残っているのです。

鞆の浦の寺社

歴史ある古刹が多く残る鞆町。歴史のある医王寺、静観寺、福禅寺のほか、景色の美しい圓福寺、福禅寺など。また、江戸時代、城下町整備の一環として福島正則が「寺町通り」を作ったため、古いお寺がいくつも並ぶ通りまであるのです。この通りに有名な顕政寺、妙蓮寺などがあります。鞆町には、まるで歴史マップのように由緒あるお寺、社ばかりいくつもありますが、そのうちのいくつかを医王寺から始まるルートでご紹介します。

医王寺からスタート

『医王寺』は、福山駅からバスで鞆港へ向かう大通りから少し離れています。とはいえ、福山市鞆町のいくつもの観光スポットが集まるエリアにありますので、ぜひ訪れてみてください。 歴史からみると、鞆の浦で2番目に古いお寺が医王寺です。医王寺は、826年に弘法大師・空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。 医王寺から楢村幸男美術館のある道を瀬戸内海の方向へ向かうと『明圓寺』が現れます。明圓寺は、1200年代に沼隈郡山田村に建てられ、1400年代に鞆の浦へ移転したと伝えられています。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒とともに奮戦したといいます。

鞆で最も古いお寺へ

大通りを北へ進むと、『法宣寺』があります。1358年、日蓮宗の大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立しました。それが法宣寺となりました。大覚大僧正がこの地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となりました。法宣寺前の道路は、「清正公道(せいしょうこうどう)」とも言われていますが、それは江戸末期、法宣寺の境内にあった加藤清正を祀るお堂に多くの参拝者が訪れたため。お堂がなくなった今もそう呼ばれています。 さらに北に進んだところにあるのが、『静観寺』。806年、最澄によって創建された静観寺は、鞆の浦で最も古いお寺です。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍や五重塔も建てられていたそうです。鞆合戦などの相次ぐ戦乱や火災によって、寺の建築のほとんどが焼失してしまいました。しかし、焼失を免れたご本尊は「松上げ地蔵」として現在も残り、福山の鞆町の人々を見守っています。 静観寺より北西に位置しているのが、『小松寺』。小松寺は1175年に、平清盛の長男・重盛が、静観寺の支院として建立しました。歴史に登場することの多い、小松寺。「鞆合戦」では、足利尊氏・直義兄弟が陣所を構えたとされています。 建立の際、重盛が松を植えたのですが、1954(昭和29)年の台風によって倒れ、枯れてしまったそうです。

鞆の祭事に欠かせない神社

寺町通りの端にあるのが、『沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)』です。 鞆の浦の西方の山麓に位置する沼名前神社に続くように寺町通りが整えられています。鞆で行われる多くの祭がここで執り行われます。明治時代に、「祇園社」と「渡守(わたす)神社」が統合してできたのが沼名前神社ですが、今でも鞆の浦の人は、この神社を「祇園さん」とも呼びます。国の重要文化財に指定されています。

希少な文化財のあるお寺

沼名前神社の前の大通りから少し脇へそれると、『本願寺(興楽山道山院本願寺)』があります。一遍上人によって開かれたと伝えられる興楽山道山院本願寺。もともとは鞆港に近い西町にあり「沖見堂」と呼ばれていました。とても広いお寺でしたが、毛利氏に寺領の大半を没収されてしまいました。その後福島正則によって行われた慶長年間の町割りで町の北の端にあたる現在地に移転しました。 本願寺より北にあるのが『安国寺(備後安国寺)』。1270年代に金宝寺として建立されました。足利尊氏が、南北朝動乱の戦死者を弔うために安国寺として開いたとされています。唐様建築のこちらの釈迦堂は、国の重要文化財に指定されています。木造阿弥陀如来・両脇侍立像、木造法燈国師坐像も重要文化財です。

鍛冶の福山となった歴史

安国寺から善行寺を抜け、海へ向かう途中に『小烏神社』があります。小烏神社は、南北朝時代の古戦場。1349年、足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬と、尊氏および高師直とが戦った小烏の合戦の地です。小烏神社はその地に建てられました。 福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際には、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町にしたそうです。その中心にあるのが小烏神社です。

鞆の浦、瀬戸内海の美しい景色を堪能する

小烏神社から、『福禅寺対潮楼』までは、バスの通る海沿いの道を南へ進みます。福禅寺は、平安時代に「観音堂」として建立され、1638年に「福禅寺」に改められたといわれています。 その「客殿」は、1694年に本堂が改築された際に新しく建てられたもの。朝鮮通信使三役の迎賓館として使われ、仙酔島と弁天島を配する美しい景色のこの客殿は、1748年に「対潮楼」と命名されました。境内は、国の史跡に指定されています。 福禅寺から、さらに岬に近づく位置に『圓福寺』があります。室町時代の圓福寺は「釈迦堂」といって、現在の沼名前神社の南、小松寺の東に構えていましたが、1610年末ころ、大可島城の跡地に移転。その後、圓福寺としました。幕末のいろは丸沈没事件の折には、紀州藩が宿舎にしました。圓福寺にある座敷から眺める瀬戸内海の景色が素晴らしく、この座敷は夾明楼(きょうめいろう)と名付けられ、観光客の訪れる名所となっています。 大可島城の城主だった桑原一族の墓が敷地内にあり、福山市の指定史跡と成っています。

鞆の浦の歴史を知ることのできるスポット

「海人小舟 帆かも張れると見るまでに 鞆の浦廻に 波立てり見ゆ」などと万葉集に歌われるほど、古くから多くの人が集まる歴史の地であった鞆の浦。鞆の浦の歴史を知ることができる施設をご紹介します。

港町の歴史を伝えるもの

万葉の歌人である大伴旅人が大宰府の役人だったときに詠んだ歌が石碑となって鞆の浦に存在しています。大伴旅人が詠んだ句が刻まれた『むろの木歌碑』と呼ばれるもので、渡し船乗り場の向かい側にあります。 さて、『雁木(がんぎ)』をご存知でしょうか。雁木は、潮の高さが変わっても船をつけられるようになっている石階段のことで、鞆の浦の雁木は、福島正則の家老・大崎玄蕃が作りました。当時の姿のまま現存するものはほとんどなく、鞆の浦では、コンクリートに覆われてしまっているものの、現在もその形が残されています。常夜燈の東側にあります。

鞆の浦の歴史を学ぶ歴史民俗資料館

『福山市鞆の浦歴史民俗資料館』は、中世・近世を中心にした鞆の浦の歴史や、鞆の浦にまつわる風俗、祭事、産業などについて紹介している民俗資料館です。さらに鞆の浦にゆかりのある箏曲家の宮城道雄の遺品が展示され、宮城道雄の像もあります。 また、鞆の浦歴史民俗資料館から海へ歩くと、「平久履物店」さんが個人的に家財を展示している『平野屋資料館』があります。伝来の商売道具を中心に、歴史的にも価値のあるものが陳列されています。

「いろは丸事件」を訪ねる

『いろは丸展示館』は、1867年に起こった「いろは丸」と「明光丸」の衝突事件に関連する遺物や写真などを展示しています。江戸時代の太田家所有の蔵をそのままの形で利用した歴史ある建物で、国の登録有形文化財になっています。 いろは丸事件の際、鞆港を訪れた龍馬ら海援隊が宿泊したのが『桝屋清右衛門宅』。伝説的な天井裏の龍馬の隠れ部屋が、一般に公開されています。

「いろは丸事件」の談判の場が、今は宿に

交渉の場のひとつとして使われた町家の旧魚屋萬蔵宅をホテルにしたのが、『御舟宿いろは』。アニメ映画監督である宮崎駿のデザイン画をもとに改装されており、ポニョの舞台ともいわれている鞆町を訪れる宮崎駿ファンも虜にしている宿なのです。

鞆の浦の歴史情緒をつくる、古い町並みと家々

『太田家住宅』は、1655年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛が始めた保命酒の事業の興隆を現在に伝える歴史的建物。保命酒づくりで栄えた中村家は、江戸時代に醸造販売権を独占し、拡張や増築を重ねました。三条実美ら尊王攘夷派の公卿7人が鞆の浦に立ち寄った際に、中村家に宿泊したといわれています。明治に入り、廻船業を営んでいた太田家の所有となりましたが、母屋や炊事場、保命酒蔵が見事に保存されており、1991年に国の重要文化財指定を受けています。 1855年に清酒業を始めた岡本家。明治にはいって保命酒が中村家の専売でなくなると、保命酒の製造に転換。1873年に、福山城が廃城となるとき、福山城の長屋門を買い取りました。その『岡本家長屋門』は、福山市の重要文化財として現在も残されています。

鞆の浦の歴史に耳をかたむける

鞆の浦の歴史の証人に会いたくなったら、『鞆の津の商家』を訪れてみましょう。鞆の津の商家は、江戸末期の母屋と明治時代の土蔵で構成されている建物。商家らしい間取りの母屋と機能的な土蔵が、当時の鞆の町屋の典型であるとされ、福山市の重要文化財に指定されています。 中に入ると、今では目にすることのできない調度品が並び、まるで古き時代にタイムスリップしたかのよう。やさしいスタッフの“おばちゃん”に、鞆の浦の昔物語りを語ってもらいましょう。

鞆の浦の歴史を見て楽しむイベント

鞆の古い家々では、2月下旬から『鞆・町並ひな祭』を催しています。このイベントでは、いつもは歴史の風情ただよう鞆の浦の町並みが、家々の趣向を凝らした雛飾りに彩られ、華やかな装いに変わります。手作り感あふれる可愛いお雛様から、先祖代々大切にしてきたであろう絢爛豪華な幾段ものひな壇まで、種類はさまざま。全100種類以上もの雛飾りをできるだけ多く見てもらえるよう、町中ではマップも配布されています。見ごたえのある『鞆・町並ひな祭』を、ぜひお楽しみください。