現在の鞆の浦の波止の景観は、江戸時代から幾度となく造営を繰り返されて出来あがったものです。古くから鞆港は、東側の大可島や西側の明神岬、それに南側の玉津島などの自然の波よけのおかげで、天然の良港として栄えていました。
しかし、近世初頭に大可島を陸続きにしたため、港の海底に土砂が堆積して浅くなったり、また台風は自然の波止ではさすがに防ぎきれずに、船舶が損傷を受けたりして、いよいよ波止場の造営の必要が出てきたのです。
苦心する波止の設営事業―その歩み
まず1791年に、大可島下から90m、淀媛神社下から36mの波止を造りました。その後、1810年には、鞆奉行・下宮左門が膨大な費用を何とか捻出し、名人・工楽松右衛門に工事を発注。波止の延長、修理を行いました。
1824年に修理は完成。現在見るように総長144mとなりました。
◇大可島から伸びる現在の波止―先人の尽力の賜物です
ねずみの尻尾に見えません?にょろっと伸びる玉津島の波止
さらに1847年には、玉津島の波止が豊後国佐伯の柴田宗左衛門によって造られ、ほぼ現在の鞆港の姿になります。
玉津島は淀媛神社よりもさらに南に浮かぶ小さな島です。別名「ねずみ島」。波止が伸びたことにより、ねずみが尻尾を出したみたいに見えたんですね。
◇玉津島の波止―たしかに、ねずみみたいですね
波止場の基本情報
2012年7月8日 公開
住所 広島県福山市鞆町
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