医王寺は鞆の浦の絶景スポットとして知られていますが、その医王寺の参道脇に潜むように平賀源内生祠があります。高松藩薬用方出身で蘭学者として知られる平賀源内は、諸国を遍歴し、鞆の溝川家に寄寓したことがあり、この時に源内焼の製法を伝え、土の神、かまどの神、平賀源内大明神を三宝荒神として祀るよう言い残して去ったといわれています。この生祠は、溝川家が宝暦14年(1764年)に祀ったもの。1940(昭和15)年に広島県史跡に指定されました。

平賀源内と鞆の津(鞆の浦)

1752(宝暦2)年、源内は長崎に遊学して蘭学の諸技術を学び、翌年、故郷の讃岐への帰途、鞆の津の溝川家所有地で陶土を発見し、鞆の津に陶器造りを伝授しました。
源内焼きはオランダ製の釉薬を使ったといわれています。ただ、溝川家では陶器造りは行わず、鞆の津の伝統産業である鍛冶の「ホクボ」(火床)や壁土の原料として、その陶土を販売しました。
平賀源内生祠の周辺には、今でも多量の土を採取した跡があります。

平賀源内ってどんな人?

1728〜1779(享保13年〜安永8年)【本草学者】その才能、行動、発想、すべてが型破り。不幸な死が惜しまれる。 本草学者。科学者。戯作者。讃岐国出身。25歳で長崎に遊学、大坂で医学・本草学を学んだ後、1756年江戸に出た。中川淳庵、杉田玄白らと親交を持った。翌年から日本初の物産会となる薬品会を催す。源内焼き・火浣布・寒温計・エレキテル(摩擦起電器)を創作。風来山人の名で戯作者としても活躍、浄瑠璃本、また洋画なども手がけ、司馬江漢、太田南畝らに影響を与えた。1779年人を誤って殺傷し、獄死した。浄瑠璃『神電知渡』、談義本『風流志道軒伝』のほか、『物類品隲』が有名。

出典|財団法人まちみらい千代田 / 江戸・東京人物辞典について

平賀源内生祠の基本情報

2017年4月20日 公開

住所 広島県福山市鞆町後地

お問い合わせTEL:084-928-1278(福山市役所文化財課)

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